千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな
国境の山低くしてつらなれり北に落ちゆく千曲の河みづ
土田耕平
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何げない表現の底深く、しみじみと迫り来る悲愁が宿っている。
1首目。千曲川に板を並べて架けた橋が対岸へ長く延びる。その上に立ち、はるか遠くへ目をやれば、越後と境をなす山々が眺められることだよ。
2首目。信越国境の山並みが、低く連なっている。その北の方向に向かって落ち行く千曲川の流れ(それは、はたしてどこへ行き着くのだろうか)。
いずれも、千曲川が織り成すゆったりとした奥信濃の光景を、山一つ隔てた異郷である越後に思いをはせつつ、情感も豊かに浮かび上がらせる。さりげなく、だからなお、沈潜した寂しさが胸をつく。
残雪のブナ林を歩いているとき、これら土田耕平の歌がしきりに去来した。その中に登場する越後境の山、国境の山の代表格、鍋倉山(1288メートル)でのことだ。

飯山市街地の東側を、千曲川が北へ流れ下っていく。周りの開けた堤防からは、斑尾山(1382メートル)に始まる関田山脈が壁のように、西から北へ連なっているのが見通せる。
耕平が「山低くして」と詠んだとおり、標高は決して高くない。1000メートル前後にとどまる。けれども冬の間、日本海から吹き寄せる湿気を含んだ風がぶつかり、大量の雪を降らせる。日本でも有数の豪雪地帯を生み出す山々だ。
5月の中旬というのに、関田山脈の中心に位置する鍋倉山の尾根筋から下る途中は、まだまだ分厚い残雪だった。急な斜面でも1メートル、谷底状の所では2メートルに近かっただろう。
木々の根元だけがすり鉢の形に雪解けが進んでいる。放射熱によってえぐられたようになり、「根明け」とか「根開き」と呼ばれる。太いブナの幹の周りは、すっぽり人間が入れるほど深い。
アララギ派の若き歌人・耕平は、病弱の上に極度の不眠症に苦しんでいた。点々と各地で転地療法を重ね、1923(大正12)年の7月からは3カ月間、飯山の妙専寺に滞在した。

ほとんど本堂の一室に引きこもった暮らしながらも、住職夫人をはじめ一家の手厚いもてなしを受ける。後の第2歌集「斑雪」には「飯山にて」と題し、冒頭の2首を含む厳選した7首を載せている。
1895(明治28)年6月1日、諏訪郡上諏訪町大和に生まれた耕平は、10代後半で郷土の先輩歌人、島木赤彦に師事した。その師弟関係は親密で、飯山へも赤彦の計らいで訪れている。
当時、板橋があった中央橋近くでは今、新幹線開通に備え新しい橋の工事が進む。一帯は大きく変わりつつある。あのブナの森の静けさだけはいつまでも...と願わずにはおれなかった。
〔関田山脈〕新潟県と境を接する長野県で最も北の山脈。全長約80キロ。16もの峠が両県を結び、塩の道などとして古来、交流が盛んだ。近年はトレッキングコースの人気が高い。
(2014年6月21日号掲載)
=写真1=信越県境・鍋倉山の中腹
=写真2=飯山城址公園の土田耕平歌碑