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164 真田一族 ~幸村は大阪人のあこがれ~

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 善光寺の現本堂を再建したのは松代藩だ。大勧進の慶運(1664~1729年)が、集めた寄進を基に建設プロジェクトを請け負い、職能団体や商人らをまとめ、遺漏のない組織と綿密な段取りを立てたのは松代藩士だ。

 幕府は松代藩3代藩主・真田幸道に全面的な指揮監督権を与えた。藩主の名代は家老・小出大夫で、現場の総監督となった。江戸時代では全国最大級の木造建築で、藩の人材や職人を総動員。3年がかりで、宝永4(1707)年に完成した。

 本堂の北や東公園に林立する藩士慰霊塔が松代藩の苦労を物語る。だから、松代の殿様の参拝は威儀を正して行われた。大門の高札場まで馬で、駕籠に乗り換えて駒返り橋まで、山門までは歩いた―と、安政年間(1854―60年)ころの古文書にある。

 善光寺には、創建された中世以来、幾多の著名人が参拝した。歴史好きの人にとって関心は、善光寺再建の号令をかけた源頼朝が実際に参拝したかどうかだ。明確な記録を欠き、謎のままだ。

 それでは、上田、真田藩の雄、真田幸村(1567~1615年)はどうか。これも謎だ。「著名な寺を日帰りで参拝して当然」という見方と、「戦国の経営に忙しく、寺社など眼中になかった」と、意見は分かれる。

 2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」に決まった。地元を舞台にする大河ドラマ化を求める動きは、全国で数知れない。「川中島を含めて、なぜ信州ばかりなのか」と怨嗟の声は強い。だが、徳川を手玉に取る幸村と真田十勇士のストーリーに、大阪人の期待が盛り上がる。

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 大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)を豊臣方で戦った幸村は、大阪人にとって、善光寺と並んで「意地とあこがれ」の代名詞だ。信州といえばこの二つを連想し、「大河ドラマ・真田丸」に異議なしなのだ。

 大坂城外に築いた真田丸(出城)から、家康の陣地寝所に迫りながら、壮烈な最期を遂げた安居神社(大阪市天王寺区)がにぎわい始めた。幸村戦死の地と刻した石碑に並び、幸村像が建立されている。

 大企業(大藩)ではなく、中小企業であった真田が知恵と工夫、忍耐の末、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」の名を残す。高度成長とその崩壊を生きた人々の共感を呼ぶのだろう。

 幸村は、負傷して同神社で休憩中に鉄砲で討ち取られた。上田駅前の幸村像は馬上姿だが、ここの像は実戦的な甲冑に六連銭(むつれんせん)を刻んだ手甲が印象的だ。休憩中の姿と強情を秘めたちょび髭の表情など、一見に値する傑作だ。

 高野山麓の九度山(和歌山県)に幽閉された幸村が信じたのは「南無八幡」の神か仏か、それとも無信仰だったのか、興味深い。
(2014年7月26日号掲載)

写真=安居神社の真田幸村像
 
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