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20 原田糺の報告 ~千曲川へ押し出される~

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 第一番の報告者は西沢甚七郎であった。続いて原田糺(ただし)が帰り来た。犀口で人足を指揮して、甚七郎と一緒に立ち働いたが、水が出てきたので、さてはと観察したところ、はじめの水はゆっくりなので、防げないことはないと、小高いところへ引き上げた。

 なおかれこれ指図するうちに、小松原の者が言うには「山より松を多く切り出して、御普請所の上につなぎ流しかければ、水を防ぐことができるでしょう」と。それはよかろうと、2、3人がかりで山に入り、松1本切ったところで、早くも御普請所へ水が乗ってきた。何程の事はありなんと思ったが、次第に水かさが増してきた。

 (中略)糺は年若の甚七郎にかなわず一船おくれて、70、80人が乗り組み、川中へこぎ出したころは早くも高波が打ち寄せ、千曲川へ押し出された。ようやくこちらの岸(松代側)にこぎついたころは、一面に黒濁りとなり、よくも危ないところを乗り参ったものだと言われた。

 前にも言ったように、糺はいかにも強気で地震の時土蔵に寝ていた。ひと揺れにつぶされ梁下になり、しかも裸にて臥したとのことであった。打ち所が良かったと見えて、何とかして、くぐり出て、中より土蔵を破りはい出した。しかし背中は一面に黒くなり、おびただしく、傷を受けた。されども、ものともせず働いたとのことである。

 以前、立が鼻の調査に行った時、帰った後、このたびの御用は骨折りごとではなかった。この上は大変な難しい場所の見積もりなど、仰せ付けられたいと言うのであった。

 その後、鹿谷の堰留堀割見分として岩下革を派遣した時、糺を付き添わせた。鹿谷の湛場は、まことに深山幽谷で、その危険な岨(そわ)の上に馬乗りにまたがって平然と記録をとったということである。(後略)
(2014年7月26日号掲載)
 
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