
長野五輪が終わったので、話を私の生い立ちからに戻しましょう。私は1936(昭和11)年3月3日、父・之安(ゆきやす)、母・とみの間に長男として生まれました。「前畑頑張れ」のベルリン五輪が開催され、青年将校が決起した2・26事件の年です。続いて2人の弟たちが生まれました。
わが家は1847(弘化4)年の善光寺大地震の直後に建築された古民家で、築165年ほどたっています。角川書店発行の『長野県姓氏歴史人物大辞典』には、次のように記述されています。
酒造業や開業医
「安茂里小市の塚田家は、菩提寺・称名寺(開基・佐々木盛綱)との縁故が深く、近世には酒造業を営んだ。源吾義陳(よしのぶ)は天保13(1842)年、松代藩から11人扶持(ふち)、賄役格を与えられ、次いで勝手方添役・給人格に上がった。源吾の身内は松代藩医北山家を継ぎ、能と称し、その妻は佐久間象山の姉で、源吾は象山の姻戚に当たる。その縁で象山はしばしば源吾から借金をしている(「象山全集」など)。
善光寺大地震後の洪水で屋敷を流失。その後、現在の家を建てた。六連銭の紋を付けた大建築である。源吾の子は早世し、その子・佐市は西洋医学を学び開業医となり、上水内郡会議員、長野県議会議員を経て安茂里村長を務めた。佐市の長男・之安は長野市議・副議長を務めた。家紋は丸に釘抜き」
このように佐久間象山は縁故関係にあり、時々わが家を訪れ、4代前の先祖・源吾と交流していたようです。祖母から象山の逸話を種々、聞いています。
「象山全集」によると、弘化元年7月28日、佐久間象山が小市村の塚田源吾に送った書簡には「...たとえばかように致し候えば水晶の如き見事のビードロ(ガラス)出来候、かように致し候えば葡萄(ぶどう)酒出来候、かように致し候えば養蚕に敗れなしなど...」と蘭書(ショメール科学百科事典)にあり、もっとオランダの書物を購入したいので費用を工面してほしい、との要望が寄せられています。
松代藩の月番家老・河原綱徳が善光寺大地震の被害を書いた『むし倉日記』にも、塚田家のことが次のように書かれています。
「...犀口の普請所にて十余日の間、日々千人前余づつの賄と酒と、みそ汁も一度づつ掻立汁(かきたてじる)にして給はりぬ。(米は)一人前二合五勺のならし(平均)にて、実は三合あてに他所者(よそもの)までも被下(支給)し。有司(役人)も同じ賄也。酒は茶わんに二つづつ、小市の塚田源吾が献上せしといふ。家を潰、業を失ひ、穀を失ひ、飢に臨(かか)る者ども、日々食に飽(あい)て殊の外難有がりたると云。...」
世のため人のために
酒造業を営んでいた源吾は、大地震直後の洪水で復旧作業に当たった千人前後の農民や指揮に当たった役人たちに、自家醸造の酒を振る舞ったようです。
わが家の庭に「達磨石」と呼ぶ、子どもの遊び場になってきた大きな安山岩があります。善光寺地震で上流から流されてきた犀川の大石を、田畑を流失した村人たちを救済するために源吾が運んでもらったという言い伝えがあります。今でいう救農土木事業ですね。
祖母や村の長老から、こうしたご先祖の話をよく聞いたものです。後に私が議員や市長になったのも、世のため人のために尽くすのは良いことだと、子ども心に感じたことが大きいのかもしれません。
(2014年7月12日号掲載)
=写真=自宅の庭で両親・祖母・兄弟と(左から2人目が私)