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36 高校・大学時代 ~雄弁会で多くの知己 早大で貴重な経験~

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 日本と連合国が講和条約に調印した1951(昭和26)年の春、長野北高校(現長野高校)に入学しました。安茂里小市の自宅から10キロ近くあり、自転車で通いました。当時は国道も砂利道で、車もたまにバスやトラックが通る程度でした。

 雨の日や冬は川中島駅まで歩いて汽車に乗り、長野駅から長野電鉄の電車に乗り換えて通学しました。ですから、汽車通学と自転車通学の友人が大勢できました。

 入学式で「大器晩成でよいから、大いに高校生活を楽しんで」という祝辞を聞き、そうガツガツ勉強しなくてもいいんだと勝手に解釈して、在学中はのんびりしていました。夏休みには、自宅にあった日本や世界の文学全集を乱読しました。

  発声練習や座禅合宿
 英語はキングス・イングリッシュの山田匡次先生と実用会話重視の村井昌治先生に教わりました。後年、「長野五輪のときに、教わった英語が世界で通じました」と報告すると、両先生に大変喜ばれました。苦手の数学解析は後に県教育長になられた内山袈裟一先生に教わりましたが、黒板の数字がよく見えず、このときから眼鏡を使うようになりました。

 大学受験では、大隈重信侯(こう)の早稲田に入りたいと思い、何とか合格して第一商学部に入学しました。最初は大学近くに下宿し、弓道部に入ったり、体育は「山岳」を取りアルプス登山もしました。

 そのうちに、雄弁会が度胸もつくし面白そうだったので入会。「我が早稲田大学雄弁会は経国済民の志を有する...」などと毎日発声練習をし、夏休みには伊豆大島や修善寺での座禅合宿に参加しました。

 そこで、同期の西岡武夫さんら多くの友人ができました。後に首相になった竹下登さんや海部俊樹さん、官房長官を務めた藤波孝生さんら先輩の模範演説もあり、NHKの「青年の主張全国コンクール」に出場したこともありました。長野五輪を共に取り組んだ堤義明さんは1学年先輩、首相になった小渕恵三さんと森喜朗さんは1学年後輩でした。

 野球の早慶戦は必ず応援に行きました。神宮球場からの帰りは友人たちと新宿まで歩き、勝って祝杯、負けて残念会をしたものです。

 在学中に、インド独立運動の指導者、ネール首相が大隈講堂で講演したことがありました。会場は満員で入り口の廊下にいると、ネール首相が私に触れながら入場して行きました。そのとき、この人の言葉や信念が世界の人々の心を奮い立たせているんだと、偉大な政治家の魂に触れる思いがしました。

 湛山の辞め際に感動
 また、3年生の時、戦前、日本の植民地政策を批判し貿易立国論を唱えた石橋湛山さんが戦後早稲田初の首相に就任し、大隈講堂で大歓迎を受けて講演しました。国民の期待も大きかったが、間もなく風邪をこじらせ、国会で施政方針演説ができないことを理由に、惜しまれながら辞任しました。辞め際の潔さに私は深く感動し、出処進退について考えさせられました。

 教授陣では、経済学説史の北村正次教授が長野市出身で、早稲田長野県人会の会長をされていました。その縁で私は北村ゼミで幹事などをし、卒論なども多少甘く見てもらって無事、卒業できました。

 親元を離れて生活した4年間は、貴重な人生経験でした。視野の広い物の見方、目標を定めて頑張るチャレンジ精神、気宇壮大な心構えなどを学びました。
(2014年7月26日号掲載)

=写真=早稲田長野県人会のメンバーと(中央が北村教授。その左後ろが私)

 
塚田佐さん