
私が生まれ育った安茂里小市は、南に犀川が流れ、北には里山が広がり、山紫水明の農村風景でした。冬はそり遊びや下駄スケートに興じ、春・夏・秋は魚釣り、水泳、キノコ採りなど、近所の友達と遊び回っていました。
6歳のときに母が悪性腫瘍で急逝し、強いショックを受けましたが、まだ祖母が元気でお手伝いさんもおり、我々男兄弟3人を育ててくれました。
小学校は3年生までは安茂里小学校小市分校で、家から歩いて7分くらいでした。先生3人と公仕さんしかおらず、のんびりした学校生活でした。
小市にも海軍の壕
父はそのころ、県立長野工業学校(現長野工業高校)の教師をしながら、磨き粉などに使われた白土製造業や農林業の経営に携わっていました。毎朝、打ち合わせに来る人たちがおり、農繁期には2、3人が家に泊まり込みで作業をするなどにぎやかでした。
今も鮮明に思い出すのは1944(昭和19)年、小学3年の時です。松代町に大本営の壕を掘るため、大勢の兵隊さんたちが小市の民家やお寺、分校などに宿泊し、毎朝トラックに乗って出かけていました。我が家にも奥座敷に3、4人の将校が寝泊まりし、炊事や事務処理のために十数人の兵隊さんが別棟の蚕屋に宿泊していました。
そのうちに小市のお宮の南側にも壕を掘り出し、海軍用といううわさでした。祖父が「海軍が山の中で穴を掘るようでは、この戦は負けだ」と話すと、父は「奥に聞こえますよ」と注意しながら、うなずいていました。
また、45年の夏休みに庭で弟たちと遊んでいると、兵隊さんが「トンボが飛んで来る」と言って南の空を見ているので、何かと見ると飛行機でした。慌てて庭にあった防空壕へ逃げ込みましたが、あれが「長野空襲」だったのだと思います。
4年生からは、約4キロ先の本校へ下駄履きで通学することになりました。帰りは友と語らいながら、あちこちの縁側でラジオを聞き、井戸の水を飲みながら歩きました。今は住宅地の伊勢宮は見渡す限り水田で、堰(水路)に入ってざるですくうとフナ、ドジョウ、ナマズが取れました。
そのうちに戦局が厳しくなり、8月15日には、父に「お昼に大事な放送があるのでラジオの前に集まるように」と言われ、天皇陛下の重々しい声を聞きました。ガーガー鳴ってよく聞き取れませんでしたが、父に「これで平和になる」と言われ、ホッとしたのを思い出します。
往復8キロを徒歩通学
5年生のときに新しい日本国憲法が公布され、戦時中の教科書で新時代にそぐわない箇所は墨で塗りつぶして使いました。そして48(昭和23)年4月、小学校の校舎を使った新制安茂里中学校に入学。平和憲法の下で中学教育を受けました。小中学校の6年間、往復8キロの道のりを雨の日も雪の日も歩いて通ったのが、後年の足腰の自信につながっています。
49年に父之安(ゆきやす)が母和子と再婚し、間もなく2人の弟と妹が生まれ、私は6人兄弟の長男となったわけです。育ての母和子は今、95歳で車いす生活ですが、安穏に暮らしております。
そのころは家で映画のロケがあり、片岡千恵蔵や池内淳子、佐藤慶、杉浦直樹も来ていました。片岡千恵蔵は頬に刀傷があったのに、風呂から上がるとなくなっていてびっくりしました。
(2014年7月19日号掲載)
=写真=我が家の前で行われた映画のロケ