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165 浅草寺 ~そっくりな草創縁起や逸話~

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 東京・浅草の金龍山浅草寺は、善光寺と双生児のような寺だ。草創縁起からエピソード、信仰のもろもろまでそっくり。大衆信仰の例証である。

 ともに御本尊は秘仏と定めている。善光寺は治承3(1179)年3月の本堂火災後に秘仏となった。これは火災が古文書に見える最初だ。鎌倉時代に秘仏となった明確な理由は不明だが、本尊が公衆の面前に「立ちたくない」といわれたとの伝説がある。火災以前は、参拝者は仏像をじかに拝見できたと推測されている。

 浅草寺は推古36(628)年、隅田川で漁民兄弟の投網に観音さまが発見された。場所は駒形橋の際で、観音さま示現の霊地として、今はコンクリート造りの駒形堂が建っている。20年近く経て秘仏と定められ、比叡山から慈覚大師が来て、前立(まえだち)本尊を版木に彫られ、これが刷仏として人気を集め、信仰が広まった。

 善光寺の伽藍を整備したのは科野氏で(国造=くにのみやつこ)だ。浅草寺は平公雅(たいらのきんまさ)が武蔵国の国守になったのを記念、報恩として七堂伽藍を整備した。

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 さらに両寺とも鎌倉幕府の源一族が帰依、支援した。特に女人の信仰が厚く、有名な日記文学「とはずがたり」の作者・後深草院二条は「浅草寺は霊仏と申すもゆかしくて参る」と記している。出家後、善光寺まで行脚し、長く郊外の豪族宅にとう留した。鎌倉の遊女たちもこぞって浅草寺、善光寺を信奉、愛した武家の菩提(ぼだい)を弔った。

 戦国時代になると、徳川家康は浅草寺を戦勝祈願所に定め、帰依を深めた。善光寺は江戸大奥の女性たちの信仰を集め、菩提を弔う聖地とした。

 両寺とも、周辺に多くの関係神社を配し、典型的な神仏混交が形に表れている。浅草寺の本堂東は広大な浅草神社で、三社祭の神輿100余が出陣する。善光寺周辺の神社では祭礼に僧侶や上人さまが出席する。

 浅草寺を支え、管理経営を担うのは境内の本坊・伝法院だ。比叡山・天台宗系列の一派である。善光寺を支える本坊は大勧進と大本願で、大勧進は天台宗である。浅草寺とは僧侶の人事交流がある。

 善光寺の風景を構成する石畳や仁王門をはじめ、露天の諸仏、大香炉、親鸞像など、庶民や企業の寄進による。

 浅草寺を象徴する雷門は、パナソニックの創業者である松下幸之助の建立だ。膝関節痛の悩みを聞き、清水谷恭順貫主(元大勧進住職)が祈願し、回復したエピソードが知られている。近年、巨大提灯「雷門」がリニューアルされたが、パナソニックがすべて賄った。
 善光寺は浅草寺と成田山新勝寺(千葉県)と並び、「日本三大信者寺」であり、市内の建設、老舗商店などが経営を支えている。全国から女性信者の多額寄進が目立つのも特長だ。
(2014年8月9日号掲載)
 
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