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37 市議・県議時代 ~父の後継で市議に 2期務めて県会へ~

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 早稲田大学を卒業する時、もう2年間、大学院へ行こうかとも思いましたが、祖母や母らから長男は早く家へ帰るよう説得され、長野へ戻りました。体調も良くなく、しばらく自宅でぶらぶらし、万座温泉へ療養に行くなどしていました。

 体調が回復すると、家業の白土製造業を「長野白土産業株式会社」に改組し、専務取締役となって社業に従事しました。従業員は25人ほどで、磨き粉(クレンザー)や研磨剤、農薬の展着剤などに使われる白土を安茂里の山から採取して出荷する仕事です。

 当時、父の之安(ゆきやす)は長野市議会議員でしたので、代理で後援会の会合にも出席していました。そのうちに青年団活動をしたり、消防団員として活動したり、長野青年会議所ができて加入しました。

夏目市長に学ぶ
 父は長野市議を3期で引退することになり、後継者として適任と思われる方を2、3人推薦しましたが、皆辞退され私に話が回ってきました。31歳の若さに任せ「やってみるか」ということで、篠ノ井、川中島、松代など大合併後初の1967(昭和42)年市議選に立候補しました。

 結果は、長野地区第2位(3266票)で初当選することができ、夏目忠雄市長の下で議員活動を始めました。豪放磊落(らいらく)に見えながら、細心なところもある夏目市長の決断力と行政姿勢を身近で学べました。

 そのころは独身でしたので、周囲から早く身を固めるように勧められました。私も良い人がいればと思っていたところ、久保田玲子とご縁があって結ばれ、1男2女に恵まれました。玲子は明朗闊達(かったつ)で私を助け、何事も二人三脚で頑張ってくれました。良き伴侶として感謝の思いを強くしています。

 71(昭和46)年の2期目の市議選も第3位(4263票)で当選できました。翌72年に札幌冬季オリンピックが開催されましたが、その後まさか自分が五輪に関係するとは思いませんでしたね。73年に夏目さんは参院議員になり、市長は柳原正之さんに代わって緻(ち)密な市政運営になりました。

 私は市議を2期務めた後、75年の県議選に立候補を決意し、選挙用ポスターを斬新なものにしたいと考えました。当時のベストセラー小説「かもめのジョナサン」にヒントを得て、自分の顔写真は小さくし、カモメの雄飛を大きくしたデザインが評判となり、新聞や雑誌に取り上げられました。激戦でしたが、第3位(1万4470票)で当選できました。

議場で恩師と対決
 知事は西沢権一郎さんで、議員の質問に丁寧に答える大切さを学びました。御岳山が噴火した79(昭和54)年の県議選は第2位(1万7068票)で当選でき、県内全域を見て回る機会も多くなり、長野県の広さを実感する日々でした。80年には西沢知事の病気辞任に伴い、吉村午良知事が誕生しました。

 82年の2月定例県会で、私は自民党県議団政調会長として代表質問に立ちました。当時、高校入試の総合選抜方式の採用が県内を二分する問題でした。長野北高校(現長野高校)で数学解析を教わった内山袈裟一先生が県教育長をされており、恩師と議場で対決する場面になりました。

 自民党県議団は採用反対で、私が「断念すべきだ」と迫ったところ、内山教育長は明確に断念を表明し、数年来の課題に終止符を打ったことが印象深い思い出になっています。
(2014年8月2日号掲載)

=写真=県議会本会議で代表質問に立つ=1982年3月2日(信濃毎日新聞社提供)
 
塚田佐さん