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38 市長に初当選 ~大変な重圧の選挙戦 「まな板の鯉」の心境~

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 1983(昭和58)年4月の県議選で私は3期目の当選を果たし、総務警察委員長、農政林務委員長などを務め、85年2月県会での長野五輪招致決議にも賛同しました。

 そのころ、このまま県議を続けるか思案するようになり、元々生まれ育った長野でお役に立ちたいと考えていたので、市長になって長野市発展に尽くしたいという思いが強くなってきました。

 他界した父の之安(ゆきやす)からは、いつも「二兎を追う者は一兎をも得ず。事業と政治は両立しないので、どちらかに専念すべきだ」と言われていました。先輩に相談すると「現職(柳原正之市長)の意向を確認するのが礼儀だろう」と言われ、柳原さんに4期目もやるのかお聞きすると「もう年だし、引退するつもりだ」とのご返事でした。

 「滑り込める」感触
 そこで私は今までの市議・県議の経験を生かし、85年秋の市長選への立候補を決意しました。若くして政治に関係したので、早めに引退する考えは常にあり、最後のご奉公のつもりでした。決意を明確にするため、5月には県議を辞任して準備を始めました。

 私はいつも、最後の判断は選挙民が下すという思いで、選挙をしてきました。ただ、議員は何人もいるので気が楽でしたが、市長のように当選者が1人しかいない選挙は初めてで、大変な重圧を感じましたね。これを乗り越えてこそ一人前になる、との決意でした。

 この年は2月にスキーバスが犀川に転落、7月に地附山の大地滑り、8月に群馬県御巣鷹山への日航ジャンボ機墜落と、大きな事故や災害が続きました。暑い夏で連日の後援会活動でバテ気味のところへ大地滑りが起き、避難された皆さんへのお見舞いなどで大変でした。

 秋になって涼しくなると、気力も体力も充実してきました。選挙戦終盤、投票日の2、3日前からは遊説車に手を振ってくださる方や、畑の向こうから走ってきて握手を求める方などが多くなり、今までの経験から「何とか滑り込めるのでは」という感触でした。

 10月27日の投票日は、開票結果を待つために選挙事務所で待機していると、長野バスターミナルの祝勝会場から電話があり、「そろそろ結果が出るようだ。厳しそうだから落選も覚悟して来るように」と言われました。

 どちらにしても「まな板の上の鯉(こい)」で、勝てば「皆さんのおかげ」、負ければ「私の不徳の致すところ」と腹をくくり、エレベーターに乗り込みましたが、落選経験のない私には、なんだか腑(ふ)に落ちない感じの貴重な体験でした。

落選覚悟の後に「万歳」
 落選も市民の判断なら甘んじて受け、引退するしかないか、などと思いながらエレベーターを降りた途端、隣の掃除用具を入れてある小部屋に押し込められました。「まだ残票があるようだ」と言われ、中で待機していると大きな歓声が上がり、「当選、当選」の声と共に馬乗りにさせられて入場。「万歳、万歳」と、もみくちゃになり、汗だくになりました。

 壇上では、夏目忠雄先生から「市民が選んだ市長だから、土性骨(どしょうほね)を入れて頑張れ」と、背骨をたたかれ、気合を入れられました。そのとき私は、有力者や圧力団体に屈しないで、市民本位の市政を心掛け、「声なき声」を大事にしようと決意を新たにしました。 

 選挙結果は3人のライバルを抑え、次点の石田治一郎さんに9367票差の得票数7万6515の勝利でした。
(2014年8月9日号掲載)

=写真=市長に初当選し、妻玲子と歓声に応える

 
塚田佐さん