埋木(うもれぎ)は中むしばむといふめれば 久米路の橋は心してゆけ
拾遺和歌集
よみ人知らず
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〈信濃の国は十州に〉で始まる県歌「信濃の国」は、4番に移るや、それまでと曲の調子が大きく変わる。歯切れのよい勇壮、軽快な響きから緩やかで優雅なメロディーへの転換だ。
四、尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の棧(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋 くる人多き筑摩(つかま)の湯 月の名にたつ姨捨山 しるき名所と風雅士(みやびお)が 詩歌に詠(よみ)てぞ伝えたる
古来、和歌でたたえられることの多かった県内各地の名勝、いわゆる歌枕が、あちこち多彩に登場している。
まずは源氏物語ともゆかりのある下伊那郡阿智村の園原だ。続いて木曽川に情趣を添える木曽郡上松町の寝覚の床や棧である。そして〈心してゆけ久米路〉と続いていく。
この〈心してゆけ久米路橋〉は、平安時代の歌集「拾遺集」の1首、作者の分からない「よみ人知らず」の歌を踏まえている。

埋もれ木は、中がむしばまれていて危険だといわれているようだ。同じように、険しいところに架かる久米路橋を渡る際は、十分に注意して行きなさいよ―。
そんな意味の古歌が「信濃の国」の歌詞に巧みに生かされたのだった。こうして作詞者浅井洌の並々ならぬ学識と力量が、随所に発揮されている。
そう分かった時、それまでもやもや謎めいていたものが、すっきり晴れた心地になった。「信濃の国」が成立する背景事情の一端に触れた思いがしたからだ。
江戸時代の末、松本藩士の子に生まれた洌は10代で漢籍を学ぶ。20代には国語国文にも強い関心を向けた。万葉集から新古今集まで、和歌をはじめ源氏物語、徒然草など我が国の古典の独習に励む。日本史の勉強も重ねた。
「信濃の国」を構成する豊かな言葉の世界は、歌枕はもちろん、地理も歴史も若くして磨いた洌の幅広い素養があってのことだろう。
7月半ば、梅雨晴れを待って久米路橋に足を運んだ=写真上。たどった道は長野市篠ノ井からほぼ西へ、川柳、石川、信更町を経由する県道長野信州新線だ。
山間の集落を結ぶ道は、今も路線バスが通う。犀川沿いに国道19号が整備されるまで、ここは善光寺平から松本平へ向かう主要なコース「新町街道」だった。

この街道が犀川を越す要衝、川幅が最も狭くなった絶壁に丸太を組んで渡した橋。それが久米路橋だ。1943(昭和18)年に水内ダムができ、往時の名所は湖底深く沈んだ。
代わって今、鉄筋コンクリートの橋が湖上をまたぐ。水も両岸の木々も緑一色の中、それはそれで平成の景勝らしく爽やかだった。
〔拾遺集〕古今集の成立からほぼ100年、平安中期に編まれた勅撰和歌集。古今集に続く後撰集を加え「三代集」の位置づけがされ、後の世代に及ぼした影響は大きい。
(2014年8月2日号掲載)
=写真1=埋もれ木の歌碑