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166 百済とのつながり ~国の滅亡で広まった仏教~

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 来年4月5日から5月31日までの日程で行われる「善光寺御開帳」が近づいている。今回から、ご本尊が渡ってきたという朝鮮半島と善光寺に目を向ける。

 善光寺の縁起はたくさんのエピソードに脚色をどんどん加えたから、江戸時代には膨大なストーリー集となった。現代では信じられない話がいっぱいだが、歴史の真実もたくさん反映している。

 正史である「日本書紀」の欽明天皇から敏達・推古天皇の項は、大半が朝鮮半島の百済や新羅、中国の隋との関係で占められている。善光寺のご本尊が百済から日本に渡り、善光寺が創建されたと伝えられる6世紀中ごろから7世紀のころだ。

 「百済の盛衰がなければ、仏教の伝来はなく、善光寺の創建もなかっただろう」というのは、古代史を学ぶ人々の常識だ。

 古代史研究は、朝鮮半島と中国の歴史を突き合わせて真偽を論じる。膨大な中国史料は正確さと客観性の面で、自己中心的で修飾過剰な「日本書紀」など、足元にも及ばない。

 では、百済とはどんな国だったのか、善光寺とどう関係するのか―。考察してみよう。

 おおむね朝鮮半島の西南部が中心だった百済は4世紀に馬韓の1国から勃興、新羅や高句麗と抗争を繰り返した。「百済王の祖先は、雷のように素早く高句麗を攻め、ついに敵王を切り殺し、首をさらしものにした。以後、高句麗は南下をやめた」と、中国の魏書は記す。しかし、660年、唐・新羅連合軍に敗れ滅亡した。

 善光寺縁起は「インドで誕生、百済で霊験を示し、多くの衆生を救った如来は『これから東海を越えて大日本国に渡りたい。日本の衆生との機縁は熟した。悪業に悩む多くの人を救いたい』と、百済王に告げて出発した。如来仏と別れる悲しみのあまり、王妃や大勢の女官が入水した」と語る。

 史実はどうか。
 中国にとって、朝鮮半島で我を通す独立国の百済、新羅、高句麗とそれぞれ同盟、連合を結ぶが、弱みを見れば、たちまちつぶすのが外交の柱だ。新羅の策謀に乗り、錦江の岸に籠城する百済王一族を血祭りにした。

 絶望した王妃と、女官たち350人は、岸辺の落花岩から身を投げる。いま、落花岩は遊覧船から見上げる旧跡になっている。国の滅亡を察知した官僚や技術者数千人が海を渡り、日本に上陸。処遇に困った大和政権は「東国(関東)や琵琶湖周辺に領地を与え、移住させた」(日本書紀)。

 この大量の移住者は仏教を信奉し、小さな仏像を携行していた。仏教が列島の隅々に急激に広まった。善光寺仏が長野に来る以前から、長野にも朝鮮半島からの人々が相当な数、住みつき、仏教信者がいたとみるべきだろう。

 文化は一朝一夕に伝播するものではない。数十年、数百年かかるのが常識だ。まして仏教のような巨大な思想体系は、非常に手間暇がかかっている。とんとん拍子で三国伝来したのではない。
(2014年8月30日号掲載)

=写真=韓国・公州市にある百済初期の王城「公山城」

 
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