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167 百済の存在感 ~渡来人が高い文化を運ぶ~

 「つまらないことを、日本語では何と言いますか」。現地ガイドの質問に日本からの観光客が口をそろえる。「くだらない」

 「その通り、語源は百済(くだら)です。日本の飛鳥、奈良、平安時代の文化は、ほとんど百済がルーツ。あまりにもまん延したので、飽き飽きした日本人は、つまらないものを『クダラ』と呼んだのです」

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 善光寺のご本尊は、インドから百済へ、そして日本へ渡ったと伝わる。善光寺とつながる百済にこんな話もあるとは...。関西の大学に数年留学して帰国したというガイドの説明に、観光客一同はびっくりだ。

 この話は史実に基づいた冗談ではあるが、日本で百済の存在感は大きい。滋賀、大阪、兵庫県には、百済に関係する地名や寺名、職名、人名が数えきれない。舒明天皇(593~641年)は飛鳥宮殿の火災で焼け出され、百済川端に百済宮を建て遷都した。同時に百済大寺も建立した。

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 百済からの渡来人が大勢住み、文化レベルが高く、便利だった。百済手部(くだらてびと)と呼ばれた集団は、布を織り、履や鞍、鏡、仏像を造る高級技術者だった。これらは専ら天皇家が、臣下への褒美に使った。大和朝廷の大臣、高級官僚、技術者の大半は百済人だった。

 麗しい才女には天皇の寵愛を受ける者もいた。宮家に連なる家に、今日でも脈々と百済の血が流れているのは当然のことだろう。

 仏教や善光寺に流れ着いた仏像は百済の聖明(せいめい)王が大和朝廷に献じたものと、日本書紀は記す。百済は聖明王の父・武寧(むねい)王の時代、5世紀ころから隆盛を迎えた。

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 古代朝鮮で英明とうたわれる聖明王は、行政制度の整備とともに新羅や高句麗との戦争、外交に手腕を発揮した。仏教を研究し、「仏教は人民統治の精神文化になる。素晴らしい思想だ」と判断した。

 韓国の修学旅行で必見は百済の都・公州と武寧王の墓、博物館でもある陵墓の模型館だ。

 模型館は体育館ほどの広さ、高さがあり、100人以上が見学できる。規模の大きさと副葬品、れんが内壁の装飾がみごとだ。国宝の金銅大香炉や王冠、首飾りの細密技術は中国文化の極致を表す。

 渡来の善光寺仏がどの程度の水準であったか、推測の手掛かりになる。
(2014年9月27日号掲載)

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=写真1=装飾れんがが壁面を覆い竜の絵が残る陵墓内部
=写真2=武寧王陵墓の入り口
 
足もと歴史散歩