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22 堰を押し流す ~川中島平は一面の河原に

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 「むし倉日記」は1847(弘化4)年3月の善光寺大地震に関する松代藩領内外の被害状況について詳しく記録しているが、岩倉の堰(せき)場が崩れた時の様子を、次のように記録している。

 岩倉の堰堤はまだ水面から一丈(約3メートル)近くも上に出ていたので、たまった水がこれを乗り越えることはまずはあるまいと思っていたが、ひとたび(大)(おお)(浪)(なみ)が打ちかかると、たちまち10丁(町・約1キロ)ほどの堰堤を一時に押し払い、その勢いでできた高浪によって、次の堰堤も押し流したのである。

 その流水の高さは小市に出た時は、6丈6尺(約20メートル)に達し、この水は真神の大抜(おおぬけ)をも押し払ったという。さらに小市の町の半分を崩して、まっすぐに流失。南の方の今回の普請の土堤も耐えられず、これもたちまち押し流され、川中島一面は激浪に洗われた。

 このため四ツ屋村は4軒を残すのみで、すべて押し流された。この大量の水は上堰より千曲川へ押し出され、上中下の堰はすべて押しつぶされて、川中島平は一面の河原と化した。川中島の川北と川東の流された家は、おびただしい数にのぼった。
    ◇
 岩倉に湛えられた水がその堤を押し破って一時に水が引けた時、山中の川沿いの村々の者、西側に出て異口同音に鬨ときの声を発し、社寺より鉦や太鼓を持ち出して、みんなで打ちたたいての喜びの声は、山谷にこだましたという。
(2014年9月13日号掲載)
 
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