
私が市長に就任したころ、新幹線と高速道路の整備が、県民・市民にとってまさに悲願でした。1986(昭和61)年3月には、北陸新幹線関連工事として、まず長野駅舎の改良を進めることになりました。
善光寺を模した仏閣型の旧駅舎は、私と同じ36(昭和11)年に誕生し、私自身も愛着がありました。市民の皆さんから「何とか残せないか」との要望が寄せられ、専門家を交えて検討してもらいました。しかし、モルタル造りで2階の木組みは荒縄で補強してあり、ハトの糞だらけ。地震に弱く、保存はとても無理と判断され、全面改築となりました。
用地買収で念押し
その際、東西自由通路は、できるだけ幅を広く取るよう指示しました。戦前、中央通りを造る時に皆から幅が広過ぎると言われても、当時の丸山弁三郎市長が広く造らせたという故事を聞いていたので、私も倣ったわけです。市の施設は常に「安物買いの銭失い」にならないよう、しっかりしたものを造るよう心がけました。
新幹線もフル規格での整備を目指し、福井までの沿線市町村で期成同盟会を結成して中央省庁へ陳情を繰り返しました。当時、国には「経費節減のため、信越線の改良新幹線で長野止まりでよい」という意見もありましたからね。
89(平成元)年6月には、フル規格で建設が認可された高崎―軽井沢間の起工式が軽井沢駅で行われました。その祝賀パーティーで私は一茶の句を借り、「『めでたさも中くらいなりおらが春』の心境です。早く長野までフル規格で認可してほしい」とあいさつしたところ、笑いを誘って好評でした。
91年6月、バーミンガムでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で長野が五輪開催都市に決定すると、政府は国家プロジェクトとしてフル規格建設を決め、8月に軽井沢―長野間が正式認可、9月には長野駅東口で起工式となりました。
そのころ、運輸省へ打ち合わせに行くたびに鉄道局長から「長野市は支障建物が300戸、土地所有者が900人もおり、大丈夫ですか」と言われ、「買収が長引けば新幹線は上田止まりですよ」と念押しされました。用地買収は県が新幹線局を設置して全面的に担当しており、長野市は19地区ごとに対策協議会を設け、約40ヘクタールの買収が順調に進むよう努めました。
市民に協力的雰囲気
97(平成9)年には、春の園遊会にご招待いただきました。妻・玲子と出向くと、宮内庁の方から「長野市長さんはこの辺にいてください。両陛下から長野オリンピックの準備状況のお尋ねがあります」と言われ、陛下に「施設建設など順調に進んでいます」とご報告しました。
その後も皇族方が次々に来られ、リレハンメルでもお会いした三笠宮寛仁(ともひと)親王妃・信子さまから「軽井沢の別邸近くを新幹線が通るようですが、振動や騒音は大丈夫ですか」と問われ、「はい、日本の最高の技術で施工しますから、ご安心ください」とお答えしました。
おかげさまでその年の10月1日、長野―東京間を最短1時間19分で結ぶ長野新幹線が開通しました。長野五輪を成功させるためには、新幹線が不可欠だという認識が市民全体にあり、協力的な雰囲気が強かったことがスムーズな用地取得や工事につながった、と感謝しています。
(2014年8月30日号掲載)
=写真=長野新幹線の開業セレモニーでテープカット
(2014年8月30日号掲載)