
1986(昭和61)年の市議会3月定例会に、市長就任後初の一般会計当初予算案を提出しました。前年度を40億円上回る総額662億円の積極型編成で、選挙時の公約の「芽出し予算」としました。
交通体系の整備、福祉の充実、生活環境整備、産業振興、教育文化の向上、防災対策の推進などを重点事業とし、新たに防災対策課や、女性の市政参加促進を図るための婦人室(後に女性課―男女共同参画課)、都市デザイン室を設置しました。
この年の6月市議会では冬季オリンピック招致決議案が可決され、オリンピック準備室も設置しました。予算規模は以後年々増え、94(平成6)年度が在任中のピークで総額1596億円となりました。
上信越道が開通
長野市が直接関わる高速道路は上信越自動車道です。86年3月ごろから、市内各地で設計協議、用地交渉の調印式、用地買収、幅杭打ちが急ピッチで進むようになりました。篠ノ井・塩崎地区の「北信黎明の杭」から始まり、松代は「善光寺平飛躍の杭」、若穂は「北信躍動の杭」と命名されました。
アクセス道路の整備・拡張も並行して進み、新丹波島橋、松代大橋、五輪大橋、屋島橋や、裾花川のあやとり橋などが順次完成。そして93(平成5)年3月25日、長野道の「豊科インター―更埴ジャンクション」、上信越道の「更埴ジャンクション―須坂長野東インター」が同時開通したのです。
長野市が冬季五輪開催都市に決定してからは、ほかの開催地と結ぶ五輪道路の白馬ルートや志賀ルート、選手村からエムウェーブなどの競技場や施設をつなぐ道路整備が不可欠となりました。
建設省にも重点事業として取り組んでもらい、県や関係市町村の努力で、全国的に遅れていた道路整備が、五輪のおかげもあって急ピッチで進みました。
以前の長野市の都市計画道路改良率は、県庁所在都市の中で滋賀県大津市に次いで悪く46番目でした。それが五輪までに市内45キロの整備を行った結果、中核市中37位と一気に順位が上がりました。
そのころ、建設省の某局長から「こんなに協力しているのに、長野市長は頭が高い」と言われたことがありました。私はいつも、どなたにも平常心でお付き合いをしているので、おかしなことを言うなと思いました。しかし「韓信の股くぐり」ではありませんが、長野市のためと割り切って、その局長に思い切り最敬礼したこともありましたよ。
景観形成へ取り組み
国道19号長野南バイパス・東外環状線(両郡橋―エムウェーブ)13・5キロは、五輪前に5年間で完成しました。それに対し、長野東バイパス(エムウェーブ―柳原北交差点)2・8キロは、五輪後16年たった今も工事中です。いかに急ピッチであったかが分かります。
公園も、昭和の森、氷鉋、青垣、南長野運動公園など18カ所造り、90(平成2)年からの8年間で新たに20ヘクタール増やしました。
88年には長野市都市景観形成基本計画を策定して「都市景観賞」を創設、「市風景画展」も始め、美しい街づくりへの関心が高まるよう配慮しました。街中の「緑を豊かにする条例」も施行して街路樹などの植栽を進め、樹木はなるべく伐採しないよう努めました。
(2014年9月6日号掲載)
=写真=上信越道の更埴JCT―須坂長野東IC間の開通式で