記事カテゴリ:

42 防災対策 ~地附山を復旧緑化 広域消防をスタート~

42-tsukada-0913.jpg
 私が市長に就任する直前の1985(昭和60)年7月26日、地附山で大規模な地滑り災害が起きました。災害に強い「防災都市づくり」は選挙公約でもあり、86年4月に防災対策課を新設しました。

 地附山の地滑り防止工事など復旧に努め、災害情報を市内にくまなく、素早く知らせる同報無線(防災行政無線)を設置。震度5などの地震体験ができる防災市民センターも建設。中小河川の整備や雨量・水位観測局を設け流量制限などもできるようにして、災害の未然防止に努めました。

 メモリアル公園に
 同報無線は災害情報はむろん、最近はお年寄りら行方不明者の捜索にも度々使われていますね。地滑りで倒壊し、大勢が亡くなった特別養護老人ホーム「松寿荘」も若槻上野に再建しました。

 樹木がなぎ倒され、赤茶けた山肌をさらした地附山は、善光寺平のどこからでも見えるので、早く緑化しなくては、と考えていました。そこで緑化の権威であり、初代・県自然保護研究所長に就かれた宮脇昭先生の指導を仰ぎ、幼苗植栽方式を採用。大勢の子どもたちやボランティアの皆さんと数年にわたり植樹を続けました。

 鎮守の森にあるような、昔からその土地に生えているナラ、ブナ、カエデ、クリなどを植えるよう指導されました。私も一緒に汗を流した結果が、今では緑いっぱいの防災メモリアル公園となり、市民に親しまれるようになりました。

 消防の近代化と組織の充実にも努めました。県内初の救急救命士が誕生し、女性消防士も採用しました。37メートル級のはしご車を導入し、緊急消防援助隊を創設、衛星地球局も設置し、市内の地区ごとに自主防災会をスタートさせました。

 89(平成元)年2月には、当時の豊野町、信濃町、信州新町と牟礼、三水、戸隠、鬼無里、中条、小川、大岡村の10町村長から陳情を受け、長野市がこれら地域を含む広域消防業務を引き受けるよう要請されました。

 長野市内の事業所へ勤務するため、周辺町村から大勢の人たちが通っている実態があります。同じ生活圏として考えれば、将来の市町村合併も視野に入れて引き受けるべきだ、と私は思いました。

後の市町村合併にも
 だが、市議会にも様々な意見があり、市民合意を得ることが先決でした。そこで「長野広域消防調査委員会」を発足させ、十分議論してもらいました。委託消防の10町村分の経費は国から地方交付税で措置されるし、市の負担にはならないことなどを検討していただき、市議会や市民の合意を得ながら準備を進めました。

 そして94(平成6)年3月、11市町村長が「消防業務の委託に関する協定書」に調印したのです。4月に鳥居川、信州新町消防署を開設、ほかにも順次、消防署を新設し広域消防体制がスタートしました。86年の市消防職員220人体制から、現在では2倍以上の470人体制で管内住民の生命・財産を守り、安全の確保を図るべく活動しています。

 広域消防で特に喜ばれたのは、高齢化時代を反映して患者の病院搬送など救急車の広域出動です。いざというときの安心ということで、大変感謝されました。この広域消防の取り組みが、後のスムーズな市町村合併にもつながったと思います。
(2014年9月13日号掲載)

=写真=地附山で子どもたちと植樹。左は宮脇先生
 
塚田佐さん