
「長野駅東口整備」と呼んでいる「長野駅周辺第2土地区画整理事業」も、思い出の多い難事業です。1975(昭和50)年ごろの駅東口は、旧国鉄長野工場があり、かつての水田や畑を整地して住宅、事業所、小工場などが建ち並び、無秩序な市街化が進んでいました。
老朽化した木造建築物が密集し、駅前広場や幹線道路、公園などの公共施設整備は手付かずの状態。生活環境が悪い上、消防車や救急車も入れず防災上も大きな問題でした。
長野駅周辺では、その10年ほど前から、善光寺口(西口)と東口の再開発整備の必要性が指摘されていました。善光寺口については68(昭和43)年に、当時の夏目忠雄市長がとりあえず南千歳町周辺の区画整理事業を始めようとしました。
もつれた糸をほぐす
当初は反対が多く、夏目さんが大変苦労しているのを、私も市会議員として見ていました。何とか事業着手にこぎ着けましたが、完成して清算も終了したのは17年後の私の市長時代でした。
その祝賀パーティーで、当初反対していた皆さんと夏目さんが手を取り合って喜んでいるのを目の当たりにしました。皆「おかげで、今になれば整備しておいてよかった」と言うのです。そのとき私は、反対があっても将来、市民の皆さんのためになると決断したら、蛮勇を振るって成し遂げねばならぬ、と心に誓いました。
東口整備は当初から反対が極めて強く、前市長時代の74年に七瀬地区、75年に栗田地区に対し、「区画整理事業は行わない」という確約書を市長選に絡んで渡してありました。
新幹線も来る、オリンピックも呼ぼうという時代に、私は東口がこのままでよいはずがないと判断し、85(昭和60)年12月の市長就任後初議会で整備の必要性を表明しました。
市議会にも、あらためて東口整備の必要性を認めていただき、事業化の決議をしてもらいました。そして90(平成2)年に長野駅東口地域開発基本構想を策定し、約600人の地元の皆さまに28回、説明会を開きました。
92年には長野駅東口土地区画整理事業として都市計画決定をしましたが、理解は進まず、事業は難航しました。それまでの経過から、もつれにもつれた糸を解きほぐすようなもので、公聴会では「何とか了解してもらえるよう、丁寧に説明してまいります」と繰り返し表明しました。
にぎわった五輪期間
93年に山王栗田線道路(JRアンダー)から工事着手できるようになりましたが、その年に事業計画無効の訴訟を起こされました。訴えは98年に最高裁で棄却され、地権者全員に個別説明をしました。
97年の長野新幹線開業に合わせて、東口駅前広場、地下駐車場などが使えるようになりました。五輪開催中はグッズ販売やボランティアの拠点、観客のバス発着場となり、大変なにぎわいで世界の人々が集う広場となりました。駅前の歩道橋上は超満員で、担当部長に「大丈夫か」と確認したほどです。
五輪後は全国的に土地価格の低落が続き、事業もだいぶやりやすくなりました。今では反対だった皆さんも理解が進み、東口の街づくりに参加されている方が少なくありません。こじれにこじれた難事業も工事着手から21年が経過し、ようやく完成が近づいてきたようですね。
(2014年9月27日号掲載)
=写真=老朽建物が密集していた1975年ころの長野駅東口周辺