夏の日の
夏の日のまつぴるま
しんしんと蝉の啼く
松の疎林のほそ路に
かの乙女子の指させし
鬼あざみ
色あざやかにたけ高き
信濃路ふかき山あざみ
よき花よ
その花言葉
独立自尊
とりわきてわが好む花
三好達治
◇
暑い昼さなか、まばらに松の生えた明るい林で、娘がオニアザミを指さした。ほかのどの花よりも格別に好きなんです、と。全部で21行からなる詩の前半だ。後半へこう続く。
かくいひてかの乙女子は
帽軽き額に汗し
父母のもとにいそぐと
下り路の歩(あし)をいそぎぬ
一日(いちじつ)の旅のみちづれ
こゑ高くゑまひし君や
かの君や今はたたれが妻ならむ
おにあざみそのはなみれば
しなのぢのやまぢのともの
おもほゆるかな
愁(うれ)いと懐かしさの織り成す余情が、そっとなでるように読む人の心をくすぐる。

前半にある「信濃路ふかき」は、下高井郡山ノ内町の志賀高原のことだ。そうであれば「松」は、カラマツと理解するのがふさわしい。カラマツ林を縫う細い道で出会ったアザミの好きな若い女性。ちょっぴり胸のときめく行きずりの出会いである。
三好達治は、大正時代を代表する詩人、萩原朔太郎を尊敬し、情感と知性の溶け合った完成度の高い昭和期の叙情詩を開花させた。「夏の日の」にもその独特の詩情が感じ取れる。
1900(明治33)年8月23日、大阪市で生まれた。幼いころから病弱だった。第1詩集の「測量船」を出して1年2カ月後、数え32歳で喀血している。
翌33(昭和8)年7月療養に訪れたのが、志賀高原の麓、上林温泉だ。それから2年余り「せきや旅館」、夏には発哺温泉「天狗の湯」に滞在するなどして、北信濃の温泉地で詩作にいそしむことになる。

そこで歌われたのは多かれ少なかれ、だれの胸にも去来する孤独な旅情だ。例えば、風の声や水の音に耳を澄ます1編の詩「空山(くうざん)」。秋が深まってツバメの旅立ちに取り残された思いの募る「黄葉(もみじ)」といった佳品を実らせた。
いま志賀高原へ向かうには、拡幅された志賀草津高原ルートの便がよい。かつてはほぼこのルート沿いに牛や人のやっと通れる山道、草津街道が延びていた。
所々に石仏の残る古道をたどれば、高原の入り口辺りで坂が緩やかになる。踏み固められて歩きよく、両側のカラマツ林を抜ける風が涼しい。乙女子の姿こそ幻だったけれど「松の疎林のほそ道」をしのぶには十分だ。
時折、近くの車道を走り抜ける車の音が届く。それがなければ、達治が足を運んで約80年の時の隔たりを忘れるところだった。

〔測量船〕昭和初期の代表的な詩集。「乳母車」「雪」など、国語教科書にも取り上げられる名詩38編を収める。伝統的なもののあわれ、しみじみした情趣を現代風に表現して注目された。
(2014年9月6日号掲載)
=写真1=オニアザミの花
=写真2=志賀高原の草津街道