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067 虚子と愛子 ~こまやかな交感ふくいくと~

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浅間かけて虹の立ちたる君知るや
虹立ちて忽ち君の在る如し
虹消えて忽ち君の無き如し
            高浜虚子
虹消えてすでに無けれどある如し
虹の上に立てば小諸も鎌倉も
            森田愛子

     ◇

 片や俳句界の大実力者、高浜虚子。片や薄命の若い女弟子、森田愛子。互いに「虹」を詠むことを通じ、情緒こまやかに師弟の情愛を深め合っている。

 「浅間山に素晴らしい虹が懸かったのを、君は知っているかね?」

 「虹が現れて、にわかに君がそばにいるかのようだった」

 「虹が消え、急に君がいなくなってしまったかのようだ」

 目の前の人に話し掛けるような虚子の句である。神奈川県の鎌倉から信州の小諸に疎開していた時のことだ。

 愛子は、はるか遠く福井県の北西部、東尋坊で名高い港町三国で、結核の療養をしながら暮らす。虚子が以前、三国に見舞った折、美しい虹を目にし「虹の橋を渡って鎌倉に行こう」とつぶやいた。一連の虹の句は、これが伏線を成している。

 だから愛子も俳句で虚子に応えた。

 「虹は消えて既に無いけれども、ある。先生のそばに私はいるような気がします」

 「虹の上に立つことができれば、小諸にも鎌倉にも思いのまま行くことができますね」

 
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太平洋戦争のさなか、1944(昭和19)年9月4日、虚子は空襲の危険が迫る鎌倉を避け、小諸町野岸甲、現在の小諸市与良町2丁目に引っ越した。5女晴子の嫁ぎ先の知り合いを頼ってのことだった。

 2月に70歳の誕生日を迎えている。8畳と6畳間だけの木造家屋、不慣れな山国での生活、冬の厳しい寒さも体にこたえた。

 それでも家主、小山栄一一家の懇切な支えにより、後に「小諸時代」と称される充実した創作活動を刻むことになる。47年10月25日、鎌倉に帰るまでの3年余り、選句、作句、小説の執筆...と忙しい日々だった。

 その中で特記に値する一つが、愛子との抜きんでて強い精神的きずな、交情だ。俳句にとどまらず、「虹」「音楽は尚(な)お続きおり」などの小説の主題としても、熟成したときめきを艶っぽく描き続けた。

 しなの鉄道小諸駅からゆっくり歩いて20分ほどのところに、当時の住まいだった虚子庵が保存されている=写真上。

 愛子は一度、虚子を訪ねたことがある。終戦の翌昭和21年6月だった。同居中の俳句の先輩、伊藤柏翠(はくすいと母親田中よしが一緒だ。

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 小諸は坂が多い。駅まで出迎えた虚子の後に従い、愛子は坂道を上った。三国に帰ってからは虚子が見舞う。

 翌年の4月1日、愛子は29歳の短い生涯を閉じた。その3日前、虚子宛てに電報を打つ。
ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ

 〔虚子庵〕虚子が約千日を過ごした旧宅。そのままの姿で保存しつつ公開している。隣には2000年に完成した小諸高浜虚子記念館があり、作品や資料を伝える。
(2014年9月20日号掲載)

=写真下=虚子旧宅の8畳間

 
愛と感動の信濃路詩紀行