06 古間駅 ~打刃物継承へ踏ん張る職人

furuma01.jpg
 「ずいぶん勉強してきたけれど、終わりはねえなあ。鍛冶職人は、死ぬまで勉強だ」。古間駅前(信濃町)に鍛冶場を構える「信州打刃物」の職人、畑山充吉さん(67)は語る。
 父、兄、叔父が鍛冶職人の家に育ち、43年前に独立。注文客が県外から訪れたり、畑山さんの刻印をつけた偽物が出回るほどの評判を得ている。
 信州打刃物は、川中島合戦の際、従軍した越後の刀鍛冶が、この地に鍛冶の技を伝えたのが始まりという。

 代表的な存在が信州鎌だ。刃の幅が広くずっしりとしてみえるが、手に持つと意外に軽い。刃の部分が薄いためで、峰側の6分の1の厚さまで打ち込まれる種類もある。江戸期には、使いやすさを追求した独自の加工技術を確立。強靱で切れ味の鋭い信州鎌は、各地を渡り歩く行商人らによってその名を全国に広げていった。

 1888(明治21)年に信越線が開通すると、大量の鉄が手に入りやすくなり、全国から大口の注文が舞い込むように。信州鎌は、ここから信越線で各地に運ばれていった。「俺が仕事を始めたころも、朝4時から夜8時まで土日も休まず働いた。そんな鍛冶屋が町中にたくさんあったのさ」

 しかし、戦後の高度経済成長の影で隆盛は暗転する。農家が減り、トラクターや草刈り機などの農機具が普及。安価な外国製品にも押され、鍛冶場の火は少しずつ消えていった。50年ほど前には40近い鍛冶場があり、多数の職人を抱えていたが、現在、信州打刃物工業協同組合に所属する職人は17人。畑山さんは「これでも俺は、若い方から数えて3番目」と苦笑する。

 以前、「鍛冶職人になりたい」という男性が訪ねてきたが、畑山さんは受け入れることができなかった。「仕事が減り、自分が食べていくのが精いっぱい。ものになるのに10年も20年もかかるのに、老後の保障もない」。組合の理事長を2度務め、信州打刃物の普及と伝承に心を砕いてきた畑山さんにとって、苦渋の決断だった。
 「半日よそで働いて、半日は町の親方たちが交代で仕事を教える。そんな養成所のようなものがあれば」と考えるが、実現の見通しは立っていない。

 どんな時代にも、ひたむきに鉄と向き合ってきた信濃町の鍛冶職人たち。「この産地は、つぶさないようにしなきゃな」。老眼鏡をかけ、裸電球がぶら下がる鍛冶場で鉄を打つ畑山さんは、厳しい職人の顔でつぶやいた。
(村沢由佳)
(2014年8月8日掲載)

写真:裸電球の明かりで刃を打つ畑山さん