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168 創建の謎 ~最古の縁起には「266歳の仏」~

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 「日本書紀」の記述で、善光寺仏の渡来と朝廷の仏教戦争の経緯は揺るぎない。しかし、善光寺本堂の創建は謎に包まれている。仏は誰が、いつ、どうして長野に運んだのか―だ。

 本尊の生年月は、縁起では「天竺(インド)に500年おられて人々を救い、次いで朝鮮半島の百済に渡った」とある。百済に渡ったのは聖明王の時代だから、6世紀半ばのことになる。逆算すると、本尊の誕生は紀元後50―60年ころになる。このころの日本は弥生時代だ。

 善光寺縁起で最も古い文書は「伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)―世編―諸寺付霊験所の部」という。

 「期(こ)の仏像、日本国に至り歳を経ること併せて216歳の中、京底流転の年数50歳、信濃の国に請い降(くだ)り、年員を経ること266歳の仏なりと...」などと記されている=写本コピー。

 平安末期成立という「扶桑略記(ふそうりゃっき)」は、仏像の日本到着は欽明天皇13(552)年10月13日と具体的だ。けれども、後代の縁起文献を見ると、年次、年数はばらばらで、仏像のありがたさを強調するばかりだ。

 仏教伝来の経緯は史実を見ると、「元興寺(がんこうじ)縁起」に基づく「上宮聖徳法王帝説」などの文書に散見される。

 6世紀半ば、朝鮮半島には小国が勃興、なかでも、百済は高句麗や新羅と対立、苦戦が続く三国時代だった。

 「右手に武威、左手に妥協」は今日の外交と変わりはない。

 百済の聖明王は「政治制度は中国の律令、儒教が優れて良い。しかし、臣民の心の統治には仏教が優れている」とみた。加えて、朝鮮半島の緊張に備えて、後背地として倭国(日本)と親交する地勢上のメリットも自覚した「賢帝」だった。

 最近の朝鮮史研究では、百済は中国南部、東南アジア各地に自国領として港を経営。交易と情報収集をした開かれた海洋国家だった。季節風を知り、星をガイドとする航海術を誇り、首都には異邦人があふれた。

 一方、大国・中国(唐)にとってみると、「朝鮮半島に小国が分裂、覇を競うのは結構だが、有力国が出現して台頭するのは許せない」という当たり前の論理がある。

 660年に百済が滅んだ時の王は31代。愚王だったとの伝承があるが、日本に救援を頼み、一時期は盛り返し、貴重な経典、仏具、僧侶を贈り、返礼とした。百済の滅亡が日本へ仏教が広がる大きな要因、追い風になった。

 思いもしない中国の裏切りで、百済の支配者はボートピープルになり、日本を頼った。善光寺の縁起は、このあたりの事情を「阿弥陀如来(あみだにょらい)は日本の衆生を救いたいと願い、出発した」と美化している。

(2014年10月25日号掲載)

=写真=五島美術館・大東急記念文庫所蔵 =室町時代中期の写本

 
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