
長野市民病院の開設も印象深い事業です。1976(昭和51)年の市制80周年記念事業として、市民要望の第1位に挙がった市民総合病院の建設が決定し、以後建設資金の積み立てを続けてきました。
私の市長就任時の85(昭和60)年には約40億円になっていました。これではだいぶ不足のため、87年度に7億円、88年度は13億円、平成に入ってからは16億円ずつ積み立て、基金は92(平成4)年度に103億円に達しました。
当時、市内には長野赤十字病院や長野東病院などがあり、それぞれ医療の充実に努めていました。だが、面倒な病気は松本の信大病院や東京の病院へ行くケースも多く、高度医療体制に不安があったのも事実です。
開業医の了解求める
市民病院開設の最大課題は、開業医の皆さんの了解を得ることでした。そのため87年4月、長野市医師会にも参加してもらい、市議、市民代表による市公的医療施設建設審議会を設置。全国の模範的な病院を視察し、種々検討していただきました。
当時、「市民病院を造るなら、次の選挙は応援しない」という手紙をもらったこともありました。審議会は意見集約に手間取りましたが、90年3月、長野市の医療体制向上のために「高度医療病院が必要」との答申を受けました。
直ちに県に病院開設許可を申請し、翌年4月、財団法人長野市保健医療公社を設立して、私が理事長に就任しました。そのころ、全国の公的病院は多くが赤字経営でした。打ち合わせに厚生省の医務局長を訪ねると、「今ごろ市民病院を造ると、市長さんの命取りになりますよ」と言われました。
私は「必要だから造るんです。どうすればうまくいくか、教えてください」と頭を下げました。局長さんからは「市の直営にしないで、第3セクターで運営すること。医師は100パーセント同じ大学の医局でない方が、競争意欲が出てよいようだ」とのアドバイスをいただきました。
そんな経緯があって、市医師会、銀行団にも出資してもらい、県内初の公設民営方式で92年12月、起工式にこぎ着けました。完成は95年6月。古里の富竹地区に敷地面積40ヘクタール、鉄筋コンクリート5階建て、延べ床面積2万平方メートルで開設することができました。
明るく清潔な建物に
病院設置費は213億円。内訳は、積立基金が111億円、国の補助金2億円、起債100億円です。市の財政部長が「建物を削れば、建設費はもう少し節約できます」と言って来ましたが、私は「100年使うので、建物はしっかりしたものに。明るく清潔な感じの病院にしてほしい」と注文しました。
初代院長の古田精市さんには、市民の健康増進のため不採算部門の仕事もしてもらいますが、市も理屈に合う補助はするので多少でも黒字になる病院経営をお願いしました。
6診療科、150床でスタートした市民病院は97年に当初計画の300床となり、15診療科に増加。現在は30診療科、400床、医療スタッフ約900人の高度医療の充実した総合病院に発展しました。来年は開設20周年を迎えます。現在は診療所や開業医との連携も良好のようですね。
私も人間ドックなどを受けに行きますが、3代目の竹前紀樹院長をはじめ、医師、看護師らスタッフの皆さんが一生懸命頑張っておられる姿に敬意を表しています。
(2014年10月4日号掲載)
=写真=富竹地区に完成した当時の長野市民病院