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01 サッカー人生 ~子どもたちに笑顔を届けたい~

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 サッカーのJ2昇格争いが大詰めです。私どもAC長野パルセイロにとって、11月16日、23日に長野運動公園で戦う試合は昇格が懸かる2戦です。厳しい戦いですが、全てをかけてひたむきに戦います。

 私は1940(昭和15)年に父の赴任先、中国・上海で生まれ、4年後に帰国し、広島市で育ちました。そして、45年8月6日の広島原爆投下で父は被爆しましたが、幸運にも大きな後遺症もなく、83歳まで長生きしてくれました。

 サッカーボールに初めて触れたのは、広島大付属小学校に入ってからで、白いゴム製だったボールを楽しくて夢中になって追いかけました。本格的に始めたのは、広島大付属高校に入学してからです。2年生の時に大けがをし、1年間離脱したものの、3年の時は全国高校選手権で準優勝することができました。私は大会の優秀選手に選ばれました。メンバーには68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表選手で、当時1年生の桑原楽之さんや小城得達さんがいました。

 早稲田大学で2年生の時に日本代表に選ばれて、50日間の欧州遠征に参加しました。そこで、日本サッカーの育ての親、デッドマール・クラマーさんから学ばせていただき、大変勉強になりました。

 卒業後、実家のある広島に帰り東洋工業(現マツダ)に入社。仕事をしながらサッカーを続けました。練習は就業後の2時間半くらいでした。翌年(64年)からスタートした日本リーグで、開幕年から4連覇しました。

 87年に転勤した長野で、子どもたちにサッカーを楽しんでもらいたいという思いから少年サッカー裾花FCを立ち上げました。

 少しずつサッカーを楽しむ人々が増え、長野にも、2つのプロチームが誕生しています。長野パルセイロも、J2、J1と上のカテゴリーを目指してプロの激しい戦いを見せ続けることで、子どもたちに夢と希望、笑顔を届けたいと思っています。子どもは宝です。明るくて元気あふれる声が街の活力になってほしいと願っています。
(2014年11月15日号掲載)

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丹羽洋介さんの主な歩み

1940(昭和15)年:中国・上海で生まれる
  47(22)年:広島大付属小学校に入学
  53(28)年:広島大付属中学校に入学
  56(31)年:広島大付属高校に入学 本格的にサッカーを始める
  59(34)年:3年次全国高校サッカー選手権準優勝 早稲田大学入学
 60(35)年:2年次日本代表メンバーに選ばれる
    2年次関東大学サッカーリーグ優勝
 63(38)年:東洋工業(現マツダ)入社
 64(39)年:日本サッカーリーグ開幕
 64~67(39~42)年:東洋工業4連覇を飾る
 66(41)、68(43)、69(44)年:天皇杯優勝
 67(42)年:天皇杯準優勝
 68(43)年:アジアN0.1を決めるムルデカ大会に日本代表として出場
 69(44)年:選手を引退
 70(45)年:浦岡千代さんと結婚 東洋工業名古屋支店へ配属
 77(52)年:静岡マツダ法人部長
 79(54)年:マツダオート石川へ代表取締役として出向
    石川県高校サッカー選手権決勝戦のテレビ解説を8年間務める
    石川県立泉丘高校サッカー部コーチ
 87(62)年:マツダオート長野へ代表取締役として出向
 88(63)年:裾花FCを立ち上げる
    長野県高校サッカー選手権決勝戦のテレビ
    解説を10年間務める
 94~98(平成6~10)年:Jリーグマッチコミッショナー
 94~2003(6~15)年:なでしこリーグマッチコミッショナー
 94~2002(6~14)年:長野市サッカー協会会長
 96~2006(8~18)年:長野トヨタ取締役
 04~12(16~24)年:長野県サッカー協会会長
 06~10(18~22年:ネッツトヨタ長野代表取締役
 11、12(23、24年:北信越サッカー協会会長
 11~14(23~26)年:長野県と北信越フットサル協会会長
 13(25)年~:(株)長野パルセイロアスレチッククラブ代表取締役社長
 
丹羽洋介さん