
中国の上海で、父・賢象と母・さだよの間に生まれたのが1940(昭和15)年。5つ上の姉・和子、2つ上の兄・忠詞と、3人の子宝に恵まれ、両親も喜んだそうです。太平洋戦争まっただ中でしたが、家族そろって4年後に帰国しました。幼かったこともあって、上海での思い出はほとんどありませんでした。
当時、上海に住んでいたのは名古屋工業専門学校(現名古屋工業大学)を卒業して名古屋市役所に勤めていた父が、「中国の上下水道の整備の推進」という市長の命を受けたからでした。また、帰国したら広島市役所に転任することも伝えられていたそうで、同市内で住むようになりました。
つらかった手伝い
まず記憶にあるのが、港町・日宇那(ひうな)のころです。台風が来ると、父は見張りのために市役所へ行ってしまうので、高い波が押し寄せてきた時は、何度も恐い思いをしました。ただ、日頃は穏やかで、底まで透き通っていたので、よく父手製の釣りざおでアイナメを釣っていました。楽しかったなあ。
もちろんつらいこともありました。冬場の海苔採りです。寒い中、冷たい海水に手を入れて採った海苔を家に持ち帰るだけでなく、乾かすために竹でできたよしずのような所に張り付けるのです。そのころから姉と兄は勉強家だったので、私だけ手伝わされました。
その後、内陸の町・宇品(うじな)に移りました。父は実家が小牧(愛知県)で農家だったこともあり、農作業も好きで、畑も自分で耕していました。麦、豆、ジャガイモにサツマイモ、さらに当時の家庭菜園では珍しいアスパラガスを植えていました。
ここでも、私だけがよく手伝わされました。嫌でしたね。例えば、麦踏み。春先、土から顔を出した麦の芽を踏んで歩くのですが、これがきつい。広島とはいえ、この時期は寒くて必死でした。また、アスパラガスがすぐ手に入るので、母からマヨネーズを作らされました。卵を割り、黄身だけをボウルに入れてかき混ぜるのですが、すごく嫌でした。
父は動物も飼っていました。犬、ウサギ、鶏でしたが、鶏は家に隣接する2階建ての小屋で育てました。上階に鶏がいて、卵を産むとコロコロと転げ下りるようになっていました。ヒヨコをかえすときは、家の部屋を仕切り、8畳間の半分ぐらいですかね、竹で囲った籠で、一定の温度を保ちます。かえった時は、うれしいものでした。愛知から親戚が来ると父は、それまで飼っていた鶏を絞めて振る舞いました。この光景を目の当たりにしていた姉は大学を卒業するまで、鳥料理を食べられなかったですね。
母にかけた迷惑
母はしっかりした人でした。母の父が地区のもめ事を収める相談役だったり、銀行経営を引き受けたりと、地元では信頼が厚かったそうです。
そんな母に、よく叱られました。ある日、友達と地面に釘を立てる遊びをしていた時、見ている男の子の頭に刺さってしまいました。悪いことに、彼は警察官の子どもさんでした。母は何度も頭を下げておわびしていました。子ども心に本当に迷惑をかけてしまったと痛切に感じました。
それから、当時住んでいた地名から「宇品のバラ園」と有名になるくらい、父がたくさんのバラを咲かせた家で、家族みんなが楽しく暮らしていました。
しかし、それから間もなくのことです。あの事が起きたのは。
(2014年11月22日号掲載)
=写真=左から父・賢象、兄・忠詞、姉・和子、母・さだよ。抱かれているのが私