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169 百済の戦略 ~武寧王ら「日本は避難地」~

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 日本史の教科書で有名なのは663(天智2)年の「白村江の戦い」だ。660年に滅ぼされた百済の残存勢力から支援要請を受けて、軍隊を送ったが、新羅と唐の連合軍に惨敗。百済の王は戦死する。

 善光寺のご本尊が渡ってきた百済は、古代朝鮮3国のうち、新羅、高句麗と比べ弱小国のイメージだが、先進の中国に学び、文化レベルの高い国だった。最盛期の武寧(むねい)王は知略の人。新羅や高句麗と中国の脅威のなかで、東海の砂州(倭=国家以前の部族が住む日本列島)を、後背地として国家戦略に組み込んだ。ただし、並び立つ国ではなく、未開の裸の野人(ネーキッド・ネーティブ)が住む地域との認識である。

 「採集の縄文文化に弥生文化が入りまじり、社会も未分化、豪族もボスの一家のようなもの」。日本はそんな状況だったころだ。

 百済の王は移住者をたくさん送り込み、情報に不足はなかった。いろいろな説があるが、倭というのは「おれ、私」の意味で列島ネーティブの発音で、中国や朝鮮3国にやってくる使者がやたらと「ワ、ワ、ワ...」と述べるので名付けられたとも。また倭人の意味は「小人」とさげすむ意味だったともされる。

 「『日本人は小さい野蛮人なのよ』と祖母が孫子に寝物語をするのは、昔から朝鮮半島に住む庶民の習慣だった」。司馬遼太郎は「街道をゆく―韓の道」で、そう記している。16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や、20世紀の韓国併合と支配を思えば、そうした庶民の習慣も無理はない。

 1971年、公州にある武寧王陵から発見され、後に国宝に指定された副葬品12点は、金銅品の細工技術から高い文化レベルを証明した。

 武寧王と息子・聖明王は「日本は属国で、いざという時の避難地」という認識だった。最近の百済史研究では、航海術にたけた海洋国家説が強調されている。中国南部から、台湾、東南アジア諸国に拠点として、港を設けて領地にし、交易によって大いに稼いでいたとの説だ。支配者が自らを誇大視し、美化する面があるとしても、うなずけるものがある。

 百済が中国(東晋)から仏教を導入したのは384年。その約200年後に最新の政治テクノロジー(統治技術)として、仏教を大和政権に伝えたことになる。「倭人の集団を武力で制圧するより、インテリジェンスで信奉者にする」。近現代にも通ずる政策といえるだろう。
(2014年11月22日号掲載)

=写真=公州の博物館内にある武寧王陵築造の模型
 
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