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070 普選の父 賛歌 ~志をひとつにした仲間失い~

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秋晴れの
高き空にも似たりける
君を思ふて涙こぼるる
      木下尚江
    ◇
 碑には3行書きで刻まれている。続いて「木下尚江詠」とあり、並んで「平野義太郎書」とある。力強く流麗な筆の運び方だ。

 それ以上に印象強く目に映るのは、幅1㍍半ほどの横長の碑の半分を占める肖像レリーフである。その下には横書きで「普選の父/中村太八郎先生」と書かれている。

 松本市街地の西南に位置する東筑摩郡山形村。長イモをはじめ野菜や果樹の盛んな田園地帯の観光地といえば、標高1300メートルほどの清水(きよみず)高原だ。入り口の集落から4キロも離れた山深い一角に、古くからの清水寺が静寂に包まれて立つ。碑は、すぐ裏手の林にあった。

 これを詠んだ木下はキリスト教社会主義者で小説家、1869(明治2)年松本に生まれた。97年、全国に先駆け松本で太八郎が普通選挙の実施を求める運動を始めた時、行動を共にした同志だ。

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 だから〈君を思ふて〉の「君」には、そのころ危険視される普選運動に飛び込んだ太八郎への敬意がこもる。

 2年後、松本の期成同盟会を基盤にして東京に普通選挙期成同盟会が旗揚げした。それから大正期を通じ、四半世紀を超える長い取り組みと苦闘が続く。

 生きて戻ることはないかもしれない―。東京に向け松本を出発する太八郎の胸の内だ。運動の全国的な広がりを目指し、中核となる首都での足掛かりを求めて動くには、命懸けの覚悟が必要だった。

 時には2人そろって逮捕もされた。そんな苦難の歳月を知っているだけに、木下には太八郎の、理想の旗を高く掲げ、ひたすら突き進んだ姿が、〈秋晴れの高き空〉さながらに、爽やかに映ったのだ。

 国会開設を迫る動きを受け、1890(明治23)年、第1回衆議院議員選挙が行われる。けれども有権者は、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られ、人口の1・1%にすぎなかった。

 これでは民の声は反映できない。身分や性別、財産などによる制限を設けず、一定の年齢以上に等しく与えよ―。これが普選運動だ。

 太八郎は1868(慶応4)年2月20日、今の山形村、筑摩郡大池村で代々名主を務める豪農の長男に生まれた。そして1935(昭和10)年10月17日、後々「普選の大恩人」「普選の父」とされる生涯を68歳で閉じる。

 木下の一首は、そのすぐ後に詠まれた。末尾の〈涙こぼるる〉が、落胆と悲しみの深さを伝える。まさに切々たる挽歌である。

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 清水寺の境内を抜けて長い参道を引き返すと、急に目の前が開けた。京都・清水寺の舞台を思わせる見晴らし台に立てば、眼下に広々と松本平が煙っている。

 この地で普選運動の産声が...。まぶたに焼き付く風景だった。

 〔普通選挙〕1925(大正14)3月、25歳以上の男性に選挙権を与える普通選挙法案が成立。有権者数は一挙4倍の1200万人に拡大した。しかし、女性の参政権は、戦後の46年まで待たされる。
(2014年11月1日号掲載)

=写真1=中村太八郎をたたえる碑
=写真2=見晴らし台と眼下の松本平
 
愛と感動の信濃路詩紀行