信濃全山十一月の月照らす
桂 信子
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秋も遅い今ごろ、信州を旅して詠んだ1句である。まずは「全山」の2文字が効いている。ずばり、全部の山だ。信濃の山すべて、スケールが大きい。
山々を11月の月光が照らしている。満月、ないしはその前後の大きくて明るい月だろう。「月照らす」が「全山」に呼応し、雄大にして幽玄、神秘的で宇宙的な光景を思い描かせるに十分だ。
大阪に生まれ大阪で育った。年譜をたどれば、1919(大正8)年4歳でインフルエンザに一家中がかかり、肺炎を併発して以来、虚弱体質になる。
20歳で俳句を作りはじめた。店頭で知った俳誌「旗艦」に投句。主宰する新興俳句運動の旗手、日野草城に師事した。代表作に例えば、こんな句がある。
やはらかき身を月光の中に容れ
ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜
窓の雪女体にて湯をあふれしむ
いかにも女性らしい感性が、しっとり香り立ってくる。柔らかく、ふくよかな情感が包み込んでいる。言葉の表現こそ平明ながらも、そこから醸し出す詩の世界は奥が深い。
比べて「信濃全山」の句は、跳ね返すような硬さを感じさせる。硬質の叙情とでもいうのだろうか。関西の山とは異なって険しく、壮大な山岳風景が、新たな力強い感興をそそったのかもしれない。
60(昭和35)年、安曇野でのことだった。西に北アルプス、東に美ケ原を仰ぐ景勝の地だ。そうではあれ、特定の一カ所に限る理由にはなるまい。人それぞれに思いの強い山を想定して味わった方が、この句に対するなじみが深まる。
月見の名所、姨捨の周辺も風情がある。千曲川を挟んで西に伝説の舞台の冠着山、東に月の出を演出する鏡台山、北には志賀方面の山並みがかすんでいる。
桂信子には、信濃への特別の思い入れがあった。「信濃紀行―わが幻の城始末記」と題する一文がある通り、上伊那郡宮田村が、中世の武将と伝えられる父祖の地として、浅からぬ縁と親しみを抱いてきた。句碑を建てるならば宮田にしたい、との望みも持ち続ける。
月刊俳誌「草苑」を創刊主宰し、後輩を育てつつ2004(平成16)年12月16日、90歳の生涯を閉じた。2年後の06年11月13日、門下の俳人宇田喜代子さんらの尽力で「信濃全山」の句碑が除幕する。

中央アルプス駒ケ岳の麓、宮田村の中心部から2キロほど西寄りの真慶寺門前だ。近くには中世の山城、宮田城跡がある。
そうだった。ここも信濃全山の舞台だ。天竜川を真ん中に東は南アルプス、西は中ア。伊那谷とは称するけれど、川底に向けて河岸段丘が開け、どこまでも広い。
その一角、小さな句碑に刻まれた5・7・5の俳句17文字が広大無辺、山のかなたを見詰めていた。
〔新興俳句〕高浜虚子率いる巨大な「ホトトギス」系に抵抗し、水原秋桜子らが始めた反伝統俳句。季語を大切にする派、無視する派など、幾つかの流れがある。
(2014年11月15日号掲載)
=写真=宮田村に建てられた桂信子句碑