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01 戸隠信仰 ~信仰の形 さまざまに変遷~

 戸隠の信仰は、その長い歴史の中で様々に形を変化させてきた。

 戸隠神社が明治維新に伴う神仏分離まで「顕光寺」という寺院だったことは、郷土史に詳しい人なら知っているだろう。では、その寺は、いつ開かれたのか。

 信仰の拠点としての戸隠開山について、後の時代に記された複数の文献に登場するのは、平安時代の850年ごろ、法華経を読む「学問行者」が初めて戸隠山に登ったとする伝承だ。

 それ以前の戸隠は、独特の山容と、信濃町へ流れ下り豊野で千曲川に注ぐ鳥居川、裾花川の支流である楠(くす)川を発する水源であることから、自然信仰の対象だったらしい。

 同社の神職の一人で長野高専名誉教授の二沢久昭さん(79)は、豊作を祈る農業信仰の対象として、「善光寺平の里宮に対する奥宮のような信仰の拠点が、戸隠山にあったのだろう」とみる。

 やはり同社の神職で、「日本書紀」の全訳を著している元教員の宮沢豊穂さん(64)は、書紀の記述を基に、7世紀末に在位した持統天皇が神を祭ったと主張する。「水の神である竜神を、やはり湖に水神信仰のある諏訪と同時に祭った。学問行者はその竜神信仰が衰退したころに、仏教で戸隠信仰を再興した」と言う。

 学問行者の入山以降、戸隠は自然信仰の拠点から、神仏習合の修験道場となった。比叡山延暦寺の荘園になり、天台密教を学ぶ僧が集まった。

 中世には、独自の戸隠版法華教典を木版印刷で発行するなど、天台寺院として大きな力があったという。記紀の岩戸神話に絡めて、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が投げ飛ばした岩戸が戸隠に落ちた―という伝説が信じられるようになったのも、中世のことと考えられる。

 戦国時代には、北信濃を上杉と争った武田信玄が伽藍(がらん)を破壊。約30年間、小川・筏ケ峰(いかだがみね)に避難した。

 江戸時代初めには徳川将軍家の後ろ盾を得て、寛永寺(東京・上野)末寺の天台寺院となった。組織も整備され、学問寺院としての色がさらに濃くなった。大勧進が同じ天台宗の善光寺とも交流があり、同寺同様、江戸時代に本尊仏の「御開帳」を行っていたという記録もある。

 そして明治維新。神仏分離政策で仏教色が一掃され、現在につながる神社となった。様々な信仰の形態を経てきた戸隠神社はいま、10万人ぐらいいるといわれる「戸隠講」をつくる農家らの農業信仰を集めながら、「パワースポット」として年間100万人以上が訪れる「観光地・戸隠」の中心にもなっている。

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 来年春に行われる式年大祭に向け、知られざる神社の「今」をさぐります。
(2014年12月6日号掲載)

=写真=長野市指定無形民俗文化財の「戸隠神社太々神楽」。神職が岩戸伝説にちなむ舞を神にささげる(11月10日、中社拝殿で)