
1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下されました。戦争も激しくなってきていたので、母、姉、兄、私の4人は母の実家の愛知県江南市に疎開しており、難を逃れました。しかし、市役所勤めのため、広島に残った父は被爆してしまいました。爆心地からわずか1.5キロ地点だったそうです。
投下直後から父は消息不明になり、親戚中が生きていることを信じて必死に捜し歩きました。そして3日後、市役所庁舎内の一角に身を潜めているところを発見されました。爆風によって割れたガラスで、両足に大きな裂傷を負っていたため、名古屋市内の病院に運ばれ約3カ月間入院したそうです。
8月6日は部屋に
当時住んでいた段原の家屋は、大きな被害を受けたため、父の退院に合わせて、同じ区内の宇品に移り家族そろって住み始めました。
そんな父も、足に傷跡が残るほどのけがを負ったものの、大きな後遺症はなく83歳まで長生きしてくれました。やはり、学生時代に実家の愛知県小牧市から学校のあった名古屋市内まで自転車で通学していたほどの体力があったからかもしれません。
ただ、かわいそうだったのは、時々体が痛いと言ったり、毎年8月6日になると、あの時の事を思い出して部屋に閉じこもったりしてしまうことでした。
「75年は草木も生えない」と言われたあの日から、広島の人たちはものすごい速さで復興を成し遂げていきましたが、原爆による多大な被害は想像を超えていました。
私が聞いたところでは、市内に7本の川が流れていましたが、特に元安川には、喉が渇いたと言いながら水を求めたり、海に向かって逃げるために飛び込んでいったりした人が多くいたということです。また、原爆が爆発した直後に身内を捜していた人が、例の黒い雨に当たり、被爆してしまったそうです。
個人的に記憶に残っているのが、父が退院し、宇品で住み始めた小学生のころです。放射能の影響を調べるため、広島市内の日治山という小高い丘にある施設に、3カ月に1回集められました。
そこには米国の原爆傷害調査委員会が入っていて、被爆した人、しなかった人に分けられて、それぞれの体の変化を探るために定期的に検査されていました。私も被爆しなかったメンバーの一人として参加させられました。
強かった子どもたち
また、当時小学校で恒例だった山口県光市への3泊4日の臨海学校では、身につまされることがありました。
男女問わず、被爆した同級生がいました。体にやけどの跡があったり、髪の毛が頭半分抜け落ちた子は残っている髪を長く伸ばして必死に隠したりしていたのです。臨海学校は楽しい面はもちろんあったのですが、切ない気持ちにもさせられました。
しかし、そのころの子どもたちは強かったですね。皆一緒になって遊んだり、勉強したりしました。大人もそうですけれど、どこか心の中に、早く立ち上がりたいという熱い思いがあったのかもしれません。
そして、広島での生活が再び落ち着き始めたころから、いよいよサッカーボールに触れることになりました。
(2014年11月29日号掲載)
=写真=終戦後まもなくのころ 父(中央)と私(左)