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04 小中学校時代 ~サッカー人生を左右 先輩らとの出会い~

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 両親の希望で入学した広島大学付属小学校で、初めてサッカーボールに触れました。4年生の時でした。白いゴム製のボールを、始業前や休み時間など、暇を見つけては仲間と夢中になって追いかけました。

 教員を目指す広島大学教育学部の学生が、卒業前の教育実習で付属小学校を訪れていた時に子どもに教えたことで、サッカーが盛んになっていました。だから、朝、学校に行くと、4年から6年生までは皆、ボールを蹴っていましたね。もちろん昼休みや放課後もそうでした。

 さらに、この小学校に入ったことで、私のサッカー人生を大きく左右する出会いが生まれました。

 体の大きさを意識
 一つ上にはJリーグ3代目チェアマンの鬼武健二さんらがいましたし、同学年には元日本代表の桑田隆幸、二つ下にはメキシコ五輪銅メダリストの小城得達など、そうそうたるメンバーがいました。

 皆とサッカーボールで遊んでいた時です。一つ下に筋肉のしっかりした体格の大きい、気になる後輩がいました。チチヤス(乳業)の社長の息子で、後に一緒に全国高校選手権準優勝を果たすなどし、日本サッカー協会副会長まで務めた野村尊敬(そんきょう)でした。「こいつは何者だ」という感じで、そのころから鬼武さんらと一緒で、存在感がありました。

 次第に体の大きい彼らを意識するようになり、5年生のころから、それまで苦手だった牛乳を我慢して飲むようになりました。

 小学校での伝統行事で強く覚えているのが、山口県光市の海で行われた遠泳です。5,6年生が参加するのですが、きつくて嫌でした。波で海面が動くため、何度も水を飲んでしまいました。でも、全員完泳していました。泳ぎ終わった後にもらった、温かくて甘い飲み物が本当においしかったことが、今でも忘れられません。

 サッカーに対する本格的な芽生えがないまま、中学に入学したため、選んだ部活は軟式テニスでした。面倒見の良かった姉の影響を受けて、同じ部に入ったのですが、始めると楽しくて、3年間続けました。

 今振り返れば、テニスが持つ神経戦は、サッカーのディフェンダーとしてプレーしていた私に、大変生かされたと思っています。

  情熱は失わず
 中学では、毎年恒例の宮島マラソンがありました。全校生徒参加で、広島電鉄の沿線を宮島に向かって約5キロは走ったと思います。走力には自信があったのですが、周りからマークされて、しっかり後ろに付かれ、ゴール直前に追い越されてしまいました。風よけにされましたね。悔しかったですよ。

 中学に入学してからサッカーへの情熱が失せたわけではありません。休み時間になると、サッカーボールを蹴っていたし、サッカー部に入った仲間と仲良く遊んでいました。

 学校で鬼武さん以上に存在感があったのが、鬼武さんと同学年で生徒会長の中村成朗さんでした。サッカー部だったため、体はガッチリしていたし、弁も立つ人でした。この2人には、サッカーをする上で、大変影響を受けました。

 そして高校に進学すると、仲間からの誘いがあり、本格的にサッカーを始める決意をしたのです。
(2014年12月6日号掲載)

=写真=小学校時代、遠泳した友だちと(左から3人目が私)
 
丹羽洋介さん