疎開の哀歓
昭和24年
正午過ぎになれば西
山荒れが出て寒さ身
にしむ来春までは
昭和25年
信濃路の寒さはつづ
く雪間草春の日ざし
ともえいでにけり
昭和26年
東京に帰らむ望み今
はなく同人雑誌に歌
よみて寄す
岡 麓
◇
「歌人の『おか ふもと』が疎開していた家は、どの辺りになりますか」
「......」
明解に教えてくれる返事に、なかなか出合えない。車が行き交う北安曇郡池田町の目抜き通り。もっと事前によく調べて来ればよかったと、後悔がうずく。
しばらく行ったり来たり。すると、道路のすぐ脇に「岡麓終焉の家」と大書した立派な看板が、掲げてあるではないか。

ほっとして細い道をたどる。程なく同じ看板=写真=が目に入った。探していた池田町会染内鎌の家だ。丁寧な説明板も備え付けられている。それによれば―。
昭和20(1945)年5月、東京の戦火を逃れて疎開し、26(51)年9月7日、75歳で没するまでの7年間を過ごした。東京生まれで本名は三郎。
23歳で正岡子規の門に入り、歌の道一筋に励む。後に島木赤彦と通じ、アララギ派の長老として重きをなす。73歳で日本芸術院会員。
目を見張らんばかりの経歴だ。明治以降の近代短歌の歴史をそっくり歩いてきたことになる。ちょっとした日本文学史の本にも、岡麓の名は出てくる。
子規は1898(明治31)年、短歌革新の呼び掛け「歌よみに与ふる書」を発表し、旧来の伝統和歌に挑んだ。持論を実践する場として、根岸短歌会を東京・下谷上根岸の自宅でスタートさせている。

後にアララギ派へと発展する月例短歌会である。そこに岡は、伊藤左千夫や長塚節らと共に加わった。このころ赤彦は長野師範学校を卒業したばかりだ。
もともと岡の作風は穏やか、控えめなところに特色がある。アララギ派をリードした左千夫、赤彦、そして斎藤茂吉に比べ、目立たずにきたのは、やむを得ないことだった。
信州に疎開してから出した歌集は、まず「涌井」と「冬空」だ。そして昭和24年から亡くなるまで3年間の歌290首ほどをまとめたのが「雪間草」である。
疎開中に妻の春、娘の愛子を病死させている。岡自身も肺炎を繰り返してつえに頼り、床に横たわることが多い。農村の生活にもなじめない。東京へのこだわりを絶ち切れなかった。

そんな日常を淡々と日記でもつけるかのように、歌に詠み込んでいる。あくまで平明で易しい。それでいて底に沈潜する思いは深い。
疎開先とすれば、決して粗末な建物ではない。それでも西からアルプスを越して吹きつける寒風は、つらかっただろう。草萌える春を待ちわびたわけだ。
〔歌よみに与ふる書〕 伝統和歌が金科玉条とする古今集、その編者・紀貫之を手厳しく批判。万葉集に立ち返って写生を基本とする短歌を提唱した。与謝野鉄幹の歌論と並ぶ近代短歌の原点。
(2014年11月29日号掲載)
=写真=岡麓が過ごした住居