ともし火を見れば風あり夜の雪
苔よりも雪の花さけ塚の上
大島蓼太

しんしんと雪が降り続いている。一面、雪景色に変わった。夜更けて障子を開け、庭でも眺めたのだろうか。
部屋の隅では、明け方まで灯をともす有明行灯がほの明るい。その灯が時折、ゆらりゆらり揺れている。その揺らめきに、かすかな風の気配を感じ取ったのだ。
江戸中期の俳人大島蓼太には、雪を詠んだ句が幾つかある。中でもこの句の評価が高い。微細な描写に詩心が宿っている。
広く知られた名句というのではない。蓼太の敬愛する松尾芭蕉や共に天明の俳諧を支えた与謝蕪村ほど、文学史に大きな位置を占める俳人でもない。
しかし、250年前の1700年代半ばは全く違った。江戸を主な舞台に蓼太の門人は2千人とも、3千人ともいわれる。松代6代藩主真田幸弘など大名、旗本まで弟子に抱えた。立派なかごに乗り、隅田川に屋形船を浮かべる羽振りの良さだ。
華やいだ一端が2句目にうかがえる。コケを生やしておくよりは、盛り土した塚の上は、いっそ真っ白な雪で覆って花の咲いたようであってほしい、と。
この句碑が上伊那郡飯島町中町にある。1743(寛保3)年、蓼太26歳の時、施主となって雪塚を築き、句碑を建てたとされる。高さ76センチ、幅33センチ、厚さ22センチの墓石のような形をしている。

蓼太には出身地をめぐり諸説ある。大きく分けて江戸と信濃。信濃の中でも木曽、松代、伊那などに割れる。その伊那も下伊那郡松川町と飯島町の説が並び立つからややこしい。
近年、この句碑のある飯島町が有力となってきた。町文化館前にも同じ時代の地元俳人宮下烏川(うせん)と一緒の碑がある。さらに1995年に出生地とされる旧飯島本郷村大島に、新たな句碑が建立された=写真下。
並の人物ならば、これほどまでのこだわりを人は抱くまい。大島蓼太は知らなくても次の一句は知る人が多い。
世の中は三日見ぬ間に桜かな
3日ほど外出しないでいたら、もう世の中は桜の季節で花見気分になっている―。本来の意味だけれども、「見ぬ間に」が「見ぬ間の」と言いならわされ、時の移り変わりの速いことに例えることわざのように使われる。
平明な作風で江戸俳壇を率いた。やや通俗的なきらいを隠せないにしても、だからかえって「三日見ぬ間の桜」といった今日にも通ずる名言を生んでいる。
文化館のある町中心部から与田切川を渡り、天竜川へと河岸段丘の坂を下った。遠く西に中央アルプス、東に南アルプスが雪をまとってまぶしく輝く。
すると大島の水田脇に真新しい句碑が目に入る。蓼太の代表句をたたえる記念碑だった。
〔天明の俳諧〕俳諧を芸術の域に高めた芭蕉の没後90年、卑俗化した時流に対し「芭蕉にかえれ」と中興の機運が高まる。京都の蕪村、江戸の蓼太、尾張の加藤暁台(きょうたい)たちの動き。
(2014年12月13日掲載)
写真上:町文化館前にある句碑