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08 早稲田大学へ ~伝統の早慶戦に憧れ 精鋭が集まった集団~

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 様々なことがあった広島大付属高校の3年間で、サッカーへの情熱はさらに高まりました。

 「早慶戦に出たい」。早稲田と慶応義塾の大学対抗戦は、1903年に野球で始まり、05年にレガッタ、22年にラグビー、そして、50年からサッカーでも行われるようになるなど、長い伝統があります。

 サッカーは、ナイターの国立競技場で熱戦を繰り広げていました。茶色の革ボールに白いエナメルが塗られていて、照明にすごく映えて印象的でした。

 そして、進取の精神、学の独立といった校風が好きだったので早稲田に進学することを決めました。

苦労した受験勉強
 とはいっても、受験勉強は苦労しました。両親や姉、兄からも「大学はどうするのだ」と心配されていました。

 日没とともに練習が終わると、家に帰り机に向かいました。練習で疲れ果てて、時には眠ってしまうこともありました。当時の受験科目は、英語、国語、数学の3科目。苦手な英語の克服には、一番苦労しました。

 無事、政経学部に合格することができましたが、先輩の応援もあったからだと思っています。

 実は、高校3年の時に全国高校選手権で準優勝を飾ったことで、早稲田大サッカー部(正式名称=早稲田大学ア式蹴球部)の部員の鬼武健二さんや伊野本孝一さん(西條鶴社長)といった高校の先輩から、早稲田を受験してみないかと声を掛けられていました。こういった先輩方の熱心なお誘いも、一助になったと思っています。

 早大サッカー部には、3年生に、58年の関東大学リーグ優勝メンバーで、初代Jリーグチェアマンの川淵三郎さん、2年生には鬼武さんがいました。

 また、監督にはベルリン五輪でスウェーデンを破った時の日本代表コーチを務めていた工藤孝一さん。さらに、その主力メンバーだった堀江忠男さん(当時早大教授)がコーチでしたので、日本中から精鋭が集まるわけです。まさに、上級志向の集団という感じでした。

 同期18人は皆、各県のトップクラスですから、1年生とはいえ競争意識が強いので、その中で生き延びるのも大変でした。

頭を使うプレー
 特に、私は決して足が速くなく、かといって体格も大きいわけでもありませんでした。そこで考えたのが、頭を使うことでした。

 私はディフェンダーでしたので、奪ったボールをどこへ出したら味方にうまくつながるのか、相手フォワードがどこへボールを蹴ろうしているのかを、絶えず予測しながらプレーをしました。また、守りの選手だからといって、ただ防御するのではなく、ボールを持っている相手に対して、攻めにいくような姿勢で向かっていきました。

 部で生き延びるために考え出した術(すべ)が、逆に私のサッカースタイルの礎にもなりました。

 ただ、ストレスや練習のし過ぎで、入部して間もなくの6月には、急性腎炎を患って日大病院に1週間以上、入院してしまいました。

 それでも、精いっぱい日々の練習に臨んだことで、時々ですが、試合に出場させてもらうようになりました。そして、2年生になった私に、早くもサッカーの春が訪れました。
(2015年1月10日号掲載)

=写真=早稲田大学構内の大隈重信の銅像前で
 
丹羽洋介さん