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09 日本代表に ~夢の舞台が世界に 紙張り気持ち高める~

 早稲田大学で1年生の時は、腹膜炎を患ったり、けがに泣かされたりしたので、「こりゃいかん」と、2年生になると、強い体づくりにも取り組みました。そのおかげもあって、先発メンバーに名を連ねるようになりました。

 そうすると、新たな目標も生まれます。高校生の時は、全国優勝でしたが、夢の戦う舞台が世界に変わっていきました。

 当時、サッカー部の友達と戸塚の家に下宿していましたが、部屋は3畳間でした。天井と壁に、自らの筆で「日本代表になるんだ! 日の丸をつけてプレーするんだ!」と記した紙を張り付け、気持ちを高めていました

 目標をしっかり掲げることで、サッカーにマイナスになることは一切しなかったし、プラスになることを心掛け、積極的に取り組んでいきました。

  早慶戦で同点ゴール
 そんな私の熱い気持ちに、周囲の方々も応援してくれました。近くに住む明治大学サッカー部OBの上田源太さんもその一人でした。1964年の東京オリンピックに10人の選手を輩出するなど、陸上競技界の名門、リッカー(1939年設立、ミシンメーカー)陸上部の部長で、合宿に私だけ誘ってくれたのです。

 場所は神奈川県の鵠沼(くげぬま)海岸だったと思います。波が引いた直後のぬれた砂浜の所だけをひたすら走らされるなど、足腰の基礎トレーニングを1週間みっちりこなしました。きつかったけれど、それからのサッカー人生を振り返れば、幸運でした。

 目標に向かって突き進んでいた6月17日の早慶戦でのことです。1対2と1点リードされて迎えた終了3分前。味方コーナーキックのこぼれ球に反応した私は、右足を振り抜き、40メートル近い同点シュートを決めました。この時の模様は、翌日の新聞紙上に大きく掲載されたので、今でも強く印象に残っています。

 この時にコーナーキックを蹴ったのが、68年メキシコ五輪日本代表として銅メダルを獲得し、東洋工業(現マツダ)で一緒にプレーをした松本育夫氏です。当時は1年生で、現在は日本サッカー後援会理事長を務めています。

 彼は、長野県の地球環境高校のサッカー部監督を引き受けたその年に、同校を初めて全国選手権に導きました。また、当時J2のサガン鳥栖(現J1)監督時代には、須坂市出身で松商学園高校卒の高橋義希選手を獲得するなど、長野県とは浅からぬ縁があります。

  ソ連・欧州遠征へ
 17日の早慶戦で引き分けた日に、全日本候補選手が発表され、幸運にも、私は一員に選ばれました。

 1週間行われた東京での第1次合宿では必死に取り組みました。Aチームに選ばれ、50日間のソ連(当時)・欧州遠征に参加することができました。ドイツから始まり、ソ連、スイス、イギリス、イタリアへと渡った遠征は、私に経験を培ってくれるのと同時に、衝撃を与えてくれました。

 一番大きかったのが、最初の遠征地ドイツ・デュースブルクでの1週間のトレーニングでした。指導していただいたのが、デットマール・クラマーさんでした。60年にコーチとして来日し、東京五輪で日本がベスト8入りした立役者でもあり、日本サッカーの育ての親とも言われた方でした。
(2015年1月17日号掲載)

=写真=主将を務めた4年生時にナイターで行われた早慶戦で、両チーム選手が記念撮影(1962年)
 
丹羽洋介さん