韓衣(からころむ) 裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母(おも)なしにして
他田舎人(おさだのとねり)大島
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万葉集巻20に登場する古代兵士、防人の悲しい歌だ。泣きじゃくる子を振り切るようにして北九州まで、旅立たなくてはならない。
「韓衣」は中国風の衣服で、すそが長い。普段着でなく外出用の着物ということになる。「着る」とか「すそ」にかかる枕詞でもある。ここでは「からころも」がなまって「からころむ」と読ませている。
泣く子らの「ら」は親愛の意を添える愛情表現の接尾語だ。別れ際にどれほどいとしさが募ったことか...。1首の意味はこうなる。
〈はるかに遠く兵役で出発する私の着物の裾に取りすがり、泣きじゃくるかわいい我が子を残したまま、ここまで来てしまったなあ。見守り育ててくれる母親もいないというのに〉

この歌を作った防人は、「国造(くにのみやつこ)小県郡(ちいさがたのこおり)の他田舎人大島」と記されている。「国造」は、朝廷が任命し、地方を治める役人のこと。兵役に就いた大島という人は、その使用人ではないかとされる。
そして「小県郡」は今の上田・小県地方を指す。そうならば―と、上田市を訪ねた。とりたてて明確な目標があったのではない。
1300年も昔の父と子の別離だ。歌碑でもあると目当てにできるけれども、どの辺を舞台にした歌なのか手がかりが乏しい。
上田市街地の東南寄り、信大繊維学部の辺りは、かつて「こうのだい」と呼ばれ、奈良時代には信濃国の地方政庁である国府の置かれた所と推定されている。大島が仕えた国造はここにおり、大島はこの辺の人だったか、などと想像が膨らむ。

そこから約1.5キロ東に進むと、1月7、8日の八日堂縁日で知られる信濃国分寺である。おのずと足が向かった。国道18号を挟んで南側に古代の国分寺跡が、公園となって保存されている=写真上。
1963(昭和38)年から71年まで8次にわたる発掘調査により、僧寺跡と尼寺跡の全容がほぼ明らかになった。それぞれを瓦ぶきの築地が囲み、中には講堂、金堂、僧・尼坊などが立ち並ぶ。尼寺より一回り大きな僧寺の場合、築地が100間(約180メートル)四方に及んでいた。
この豪壮さには驚かされる。一般の人々はまだ地面に穴を掘り、草ぶきの屋根で覆った竪穴式住居に暮らしていたころである。
役所の国府も国分寺同様、中央の威信を誇示するものであったに違いない。神坂峠や保福寺峠を越える東山道沿いに、中央の支配力が信濃にも及んでいた。
子どもと涙の別れをした大島が、その後どうなったかはもちろん知るすべがない。防人たちの行き先は北九州の太宰府だ。交代で壱岐や対馬などの沿岸警備に携わった。
任期は3年。多くは再び故郷に戻ることがなかったと伝えられる。
〔防人歌〕辺境警備のため東国から徴発された兵士の歌。万葉集巻20の90首余りは、防人の引率者が提出したものを大伴家持が選んで収めた。信濃国からは3首入っている。
(2015年1月17日号掲載)
=写真=現在の国分寺三重塔