
早稲田大学時代は、サッカーを謳歌(おうか)しました。その分、大きなツケが回ってきました。2年生の終わり近くに、学校から呼び出されたのです。「このままでは卒業できないぞ」ということでした。
確かに2年生の半ばころまで、ほとんど学校に行っておらず、それからは大変でした。3、4年生の夏休みは、単位取得のための補講の連続です。練習後だったので、疲れもあって、ついうとうとと眠ってしまうのです。そして、教授からポカンと頭をたたかれて、よく怒られていました。
無事に4年で卒業
そういう時は父親の顔が浮かんできました。「もし、留年したら大変だ。学費の面でも迷惑をかけられない」と、眠い目をこすりながら、必死に講習に出ていました。苦労のかいがあって、無事に4年で卒業できました。
政経学部長で経済学者の小松芳喬サッカー部長は人格者でしたので、講義は難解でしたが、しっかり出席して単位を取りました。また、元ベルリン五輪日本代表のバックスで、サッカー部コーチの経済学者・堀江忠男教授の講義も分かりづらくて大変でしたが、補講を受けずに単位を取りました。堀江さんは、スライディングなど、自ら手本を見せてくれる熱い人でした。
大学では優れた指導者に恵まれました。一番忘れられないのが、監督の工藤孝一さんです。当時、私たちの合宿所は東伏見(東京都西東京市)にありました。奥さまが薬剤師でもあった工藤監督は、あえてその近くに、自宅兼薬局を開いたのでした。それだけ、サッカーに真剣に取り組んでいた人ですから、毎日のように練習に来られていました。
夏休みには工藤監督の母校の盛岡商業高校にコーチに行くよう指示されました。指導方法などを細かく記したはがきが、監督から届くなどしました。その思いに応えようと、とにかく必死に取り組みました。本当にいろいろなことを教えていただき、感謝しています。
工藤監督は「キング」とも呼ばれ、厳しかったですね。それも当然でしょう。川淵三郎さん(日本サッカー協会最高顧問)、八重樫茂生さん、鬼武健二さん(Jリーグ3代目チェアマン)、釜本邦茂さん(日本サッカー協会顧問)、松本育夫さん(日本サッカー後援会理事長)らを育てるなど、名門早稲田の一翼を担われた人でしたから。
やりきった充実感
大学時代の4年間で私が一番胸を張って誇れるのが、一緒に入部した同期18人が、1人も脱落することなく、卒業できたことです。
体罰を許さない、しっかりした校風が背景にありましたし、先輩にはよく指導してもらいました。18人でやりきったという充実感は皆にも満ちあふれていました。ですから、付き合いが今でも続いています。Jリーグ発足当時、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のGMを務めた者もいて感慨深いですね。
早稲田を卒業してから2年目に、Jリーグの前身となる社会人の日本リーグが発足しました。それを控えて、多数の企業チームが強化を図っていました。私は故郷でサッカーを続けたかったので、広島の東洋工業(現マツダ)に行くことを決めていました。
(2015年2月14日号掲載)
=写真=工藤監督ら(左から3人目)大学時代に指導してくれた人たちと