
旧ソ連・欧州遠征で、心技体が大きく成長して帰国した1960年は、川淵三郎主将(Jリーグ初代チェアマン)の下、早稲田大は関東大学リーグを制覇することができました。2年生の時は本当に充実していました。
その遠征のほかに、大学時代に強く印象に残っているのが、「韓国の早稲田」と例えられている高麗大学との定期戦です。65年の日韓基本条約調印・国交正常化に先んじて、定期戦はこのころから始まりました。また、「韓国の慶応」といわれている延世大学とも対戦しました。1年ごとに日本と韓国の会場を行き来しましたが、特に私が2、4年生の時に遠征した韓国では、いろいろと経験させてもらいました。
OBの大歓迎
当時の韓国はサッカーが強くて、日本は歯が立ちませんでした。やはり、日本に負けるわけにはいかないと、私たちに向かってくる気持ちも半端ではありませんでした。スタジアムも1万5千人の観客で膨れ上がるなど、周囲の雰囲気も異様なくらいでした。

韓国にも、早稲田OBが多数いらっしゃったので、遠征で訪韓した時は、大歓迎していただきました。ただ、気持ちの熱い人たちですから、ふがいない試合をしようものなら、激励会の食事の席でも「だらしないぞ。お前たちは何しに来たのだ。明日は絶対に勝て。OBに恥をかかせるな」と、怒鳴られたりもしました。ですから、親善試合とはいえ、必死で試合に臨みました。
2年生の時のことです。ホテルでくつろいでいたら、外で突然、発砲音がしたのです。大規模なデモが起こり、学生と警察が衝突していたのです。李承晩(イスンマン)政権を退陣に追い込んだ「1960年の学生革命」でした。そのため、試合は全て中止になり、急きょ帰国せざるを得なくなりました。
ですから、韓国での思い出といえば、ほとんどが4年生の時のものです。過密日程の中で、ソウルと釜山で7試合をこなすハードスケジュールでしたが、夕食にアワビを出された日がありました。
あまりにもおいしくて、皆たらふく食べましたが、お腹をこわす者が続出してしまったのです。症状の重い人は下痢になり、比較的軽かった私は、徹夜で看病する羽目になってしまいました。もちろん、翌日の試合では、選手たちはフラフラになりながらのプレーを強いられました。
青瓦台に招かれる
ソウルでは、当時の尹ぼ善(ユンボソン)大統領に、青瓦台(大統領官邸)へ招かれました。施設の至る所に、銃を構えた兵士が警備をしているものものしい雰囲気でしたが、めったに中に入れる場所ではないので、感動しました。その時の様子が、現地の新聞に掲載されたので、切り抜きにして、今も大切に保管してあります。
また、早稲田に一時期在籍し、長年韓国代表を務め、韓国サッカーの父といわれた金容植(キンヨンシク)さんが、試合前にリフティングを披露され、選手全員と握手してくれました。大変光栄でした。
(2015年2月7日号掲載)
=写真1=満員のスタジアムで定期戦に臨む(中央が私)
=写真2=大勢の人たちが歓迎してくれた韓国遠征