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30 救助の手当 ~行き届いた支給で評判に~

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 24日より川中島の川上と川東方面の御救助として、5日間にわたり炊き出しを仰せつかった。場所は川中島が小松原と八幡原、川上が北高田と下高田、川東が東川田村である。代官が専任で手代が2人ずつ行って指揮した。

 この御救助は莫大な支出をともなう事業だった。家を流したり、家が泥の中に深く埋まったりし、蓄えた米穀も流し、あるいは水に入れた者たちがおり、老幼男女の差別なく、みな集って頂戴した。それはそれはありがたがること、例えようもなかったということだった。

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 村々へ下せられたお手当は、居家が押し埋められたもの、家がつぶれて焼失したもの、半分つぶれて焼失したもの、そのほか、家が流失したものなどには3分ずつ(1分は4分の1両)。水で押しつぶされたものへは、2分2朱(1朱は1両の16分の1)ずつ。家がつぶれたり、水で半壊したり、家が水に浸かり上の屋根ばかりが焼失したものや、土蔵ばかり流失したものは2分ずつ。半壊して数日水入で浮上し土台に狂いが生じたものには1分ずつ。床上浸水には2朱ずつ支給した。

 これらを支給しても当人にとってはわずかのようであるが、町全体の分まで入れると、おびただしい金額であった。このほか、災難の際立って重いものや、やもめなど孤独の人たちへの手当、あるいは麦作の取り入れまでのつなぎの手当、または農業生産費の拝借などに至るまで、限りもない財政支出であった。

 それなので殿のお情けの深さが他領までも響きわたって、松代領に住みたいと願う他領の村々が多いと聞いたのであった。山寺源太夫(常山)のところには手当が行き届いていることをことのほか褒めたたえた手紙が寄せられていた。

 また、川辺の村々を見分した御勘定衆や御普請役なども、ことのほかお心尽くしをされたことをお褒めになったという。江戸での評判も大変よかったと聞いている。

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 御台所勘定帳を見ると、すべてのことがおびただしい数に上る。炊き出しの賄いは12万6836食であった。また、救援のためのお手当金の支給は1万3420両と米7155俵であった。これは申年の調べである。妻女山の慰霊碑は私が担当係で建立したものである。
(2015年2月14日号掲載)
 「むし倉日記」おわり
 
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