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80 山頂に顕彰碑建立 ~撰文は重野安繹~

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 松代町に標高475メートルの象山がある。形が象の鼻を伸ばしたように見えるので、象山という。

 「象山から雨、霰(あられ)のように石つぶてが飛んで来た。佐久間啓(ひらき=幼少時の名前)が投げたもので、道を通る人たちが怖がっていた」。昨年暮れ、同町紙屋の山岸きく子さん(88)は象山論議の中で、小学生のころ知り合いの年配の女性から聞いた逸話を語った。

 その象山山頂に、「明治維新の夜明けをもたらした先覚者、象山先生の精神と偉業を永遠に残そう」と、1902(明治35)年、松代町の矢沢頼道、羽田桂之進、野中高之助、渋谷恭、佐藤房次郎が発起人となり、有志に呼び掛けて寄付金を募り、1800円(現在の290万円相当)で顕彰碑を建立した。
 横約140センチ、縦280センチ、厚さ18センチ。850字からなる碑は、当代を代表する歴史家、漢学者で名文家の重野安繹(しげのやすつぐ)=写真=が撰文した。

 書物などによると、重野(1827~1910年)は摩国鹿児島郡坂元村上町(現鹿児島市)で誕生。父は鹿児島藩士の郷士(村侍)であった。
 幕末時の経歴は、藩校で学んだ後、江戸の昌平坂学問所(昌平黌(しょうへいこう))に22歳で留学。藩主に仕える儒学者(藩儒)を歩むコースの予定だった。
 ところが、重野は1858(安政5)年、同僚が起こした金銭問題に連座して奄美大島に遠島処分となった。このころ、失脚した西郷隆盛も同島に流され、2人の交流が始まる。

 顕彰碑を設置するに際し、松代町の人たちがなぜ、重野に白羽の矢を立てたのか―。その経緯の資料はないが、「西の西郷、東の佐久間」と称される中、佐久間家が断絶の後、家名再興を許されたのは西郷の口添えがあったからだといわれ、西郷から重野にも象山の業績が伝わったのかもしれない。その縁から選び出されたのではないだろうか。



 
象山余聞