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81 身近な山の名を号に ~子平と象山たたえる漢文~

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 松代町の象山は、山頂に登ると善光寺平をはじめ、海津城も一望できる眺望絶佳の山だ。現在は草が生い茂っているが、遊歩道があり、象山神社から30分も歩けば山頂に到着する。松代町史によると、山頂は昔、西城氏の古城址(じょうし)で、城山と呼ばれていた。

 象山は雅号「象山」の由来について次のような一文を書いている。「昔、中国宋の陸子静は、貴渓(きけい)の象山という所で学問を教えていたので、陸象山と称されていた。私の家の近くに小高い山があって、その形が象に似ているので、土地の人は皆、象山と呼んでいる。だから、私もその山の名を取って号とした」

 山頂から眺めると、海津城の動静が手に取るようにうかがうことができるため、旧藩時代、みだりの登山はご法度(忍者が横行していたのかもしれない)。

 この山には、「旭さす夕日輝く其の下に黄金千両朱千杯」という長者伝説がある。明治の中ごろ、松代の山崎国治郎が発掘を試みたところ、古代装飾品の一つ、曲玉(まがたま)の類が出た。

 さて、重野が文章を作った850字の顕彰碑=写真=を紹介する。すべて漢文で、現代文に訳す際、長野漢詩会の宮崎真講師に教えを受けた。

 要約すると―。

 私は百余年来、儒学の学者について気を付けて見ているが、将来を見抜く人物、二人を知っている。一人は仙台の林子平(はやししへい)。もう一人は、すなわち松代の佐久間象山だ。

 子平は寛政(癸丑、みずのとうし)(1793)年に他界。当時、日本国の四方の海には心配がなく安全だった。

 士大夫(官僚層)は、おおむね遊び、その楽しみにふけっていたが、子平は独り国境の守備を論じ、憤り、嘆いて書を著したため、禁錮終身の罪を受けた。

 象山、子平に後れること四十余年。早くから外国の事情を憂えている。
(2015年2月14日号掲載)
 
象山余聞