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14 被爆とスポーツ界 ~「負けてたまるか」魂 象徴は広島カープ~

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 私は、両親と暮らしたくて、大学卒業後は故郷の広島に帰ることを決めていました。
 1945(昭和20)年8月6日の原子爆弾投下で、広島の中心市街地は壊滅的な打撃を受け、「75年は草木も生えない」と言われました。

 父は被爆してしまいました。5、6歳だった私は、母親の郷里(愛知県)に疎開していて難を逃れました。同期の今西和男君は、中心市街地にあった生家で、左半身に閃光を浴びてしまいました。今でも手、足にケロイドが残っています。それでも、地元の舟入高校に進学し、東京教育大学を経てJリーグの広島(J1)のGMにも就きました。

 2次被爆や差別
 多くの人たちが「黒い雨」に打たれました。現在ほど情報網が発達していなかったので、放射能で汚染された学校のグラウンドでサッカーに熱中するなど、原爆投下直後に爆心地に近づいて2次被爆を受けた子どもがたくさんいました。

 さらに、成人後も苦しめ続けられたのが「被爆差別」です。申請すれば被爆者健康手帳を取得でき、医療費がかからなくて済むのですが、被爆者と分かると、わが子に至るまで、言われなき差別を受けるので、70歳代半ばにしてやっと被爆者健康手帳を取得した人もいらっしゃいました。

 到底、この世の出来事とは思えない、筆舌に尽くしがたい地獄を目の当たりにしながら、広島市民の胸に刻みこまれたのが「負けてたまるか」という強い気持ちです。一日も早い復興に懸けた「広島魂」でした。

 その象徴の一つが、NPB(日本プロ野球機構)唯一の市民球団、広島東洋カープです。原爆による壊滅的被害からの復興を目指し、広島出身者だけでチームをつくろうと、立ち上がったのです。

 チーム名も、鯉(こい)の産地や、原爆で焼け落ちた広島城が「鯉城」とも呼ばれていたことからカープとつけられたのです。そして、球団創立26年目の75(昭和50)年に赤ヘル旋風を巻き起こし、初優勝しました。

 現在のプロ野球応援形態も、広島ファンが球場にトランペットを持ち込んでコンバットマーチを演奏したのがきっかけと言われています。必死に声援を送る姿勢にも広島市民の熱い思いが込められているのだと思います。

  多くの選手が活躍
 メキシコ五輪サッカーの日本代表になった後輩の小城得達は、中学時代まで軟式野球部員でした。進学した広島大付属高校に野球部がなかったことから、サッカーを始めたので、野球部があったらカープでプレーしていたかもしれません。

 バレーボールで東京、メキシコ、ミュンヘン五輪代表の猫田勝敏さんをはじめ、他のスポーツ界でも多くの優秀な選手が足跡を残し、活躍もされています。

 サッカーもグラウンドが焼け野原になった状態から、全国高校サッカーで広島県が君臨するようになったのは、偉大な諸先輩方の温情のたまものです。

 広島大付属中学・高校にはアカシア会があります。全国に支部があって、先輩たちが築き上げてきた歴史と伝統は受け継がれてきたもので、日本サッカー界に多数の人材を輩出しているのです。
(2015年2月21日号掲載)

=写真=原爆投下後の広島中心部(米軍撮影・広島平和記念資料館提供)
 
丹羽洋介さん