
東洋工業(現マツダ)に入社するため、東京駅から特急電車で広島に向かいました。すでにヤンマーのサッカー部に所属していた1年先輩の鬼武健二さん(Jリーグ3代目チェアマン)が大阪駅に迎えに来てくれていました。
大阪駅に着いた時です。突然、鬼武さんに列車から引きずり降ろされてしまったのです。そのままヤンマーの本社ビルに連れて行かれ、後に社長になられた山岡人事部長と面会することになりました。
広島大付属小学校から早稲田大まで、同じ釜の飯を食べてきた鬼武先輩だからこそ、広島に帰ることは決定事項として伝えてあったのですが...。誘ってくださるのはありがたいことでしたが、丁重にお断りさせていただきました。
練習後に再び勤務
翌年(1964年)に日本サッカーリーグが開幕することから、参入を決めている企業が積極的に強化策に入っていましたが、故郷に帰る気持ちは揺らぎませんでした。
東洋工業も参画していました。サッカー選手として強い誘いはありませんでしたが、実家のある広島でサッカーを続けたくて、一般社員として入社試験を受けました。
胸の奥に「サッカーをいつまでもできないし、社会に出ても通用する人間になりたい」と、将来を見据えた考えも芽生えていました。高校生の時の目標が選手権で優勝すること、大学では日本代表になることだったように、入社後はディーラー経営に興味を持ち始めたのです。
私の配属先は部品部でした。自動車1台当たりの部品は、約3万点にも上り、覚えることが大変でした。それ以上につらかったのが、全国各地に展開しているディーラーからの注文に、タイミングよく交換用の部品を送らなければいけないことでした。
そのために3カ月先の需要予測を立てなくてはなりません。当時は電算機がなかったので、手動の計算機をガリガリ動かしながら算出していました。
サッカーの練習は、勤務が終わってからの午後5時半から8時ころまで、工場の敷地内にあったグラウンドでしていました。需要予測の計算が勤務時間内に間に合わず、練習後に事務所に戻って計算していました。
ビジネスマンとして
残業代が出るわけでもなく、それから家に帰って夕飯を食べるという日が続くようになり、私の体形はスポーツ選手なのに、58キロと軽量でした。
勤務が忙しいと、時折練習を休むことがありました。そういう時は、サッカー部の監督から私の上司に、「練習に出させてくれ」と連絡が入りました。私も、口には出しませんでしたけれど、仕事を優先してビジネスマンとして成長したいと思っていました。
ただ、サッカー部の監督、コーチは厳しかったですが、東洋工業が日本サッカーリーグ元年から4連覇を成し遂げる原動力をつくり上げてくれました。
会社もしっかりバックアップをしてくれました。天皇杯、リーグ戦といった公式戦は、日曜日に行われていました。当時は週休2日制ではありませんでしたので、土曜日は勤務を休みにして移動日に当ててくれました。
(2015年2月28日号掲載)
=写真=私が入社したころの東洋工業(現マツダ)の社屋(マツダ提供)