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16 日本リーグ元年 ~「広島魂」奮い立たせ 圧倒的強さで覇者に~

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 入社2年目の1964年、Jリーグの前身となる日本サッカーリーグ(JSL)が開幕しました。
 かつて、直接指導されたこともある元日本代表コーチのデットマール・クラマーさんの強い提案もあり、日本サッカーのレベル向上と、地方都市強化のために創設されました。ただ、当時のサッカー界にとって、青天のへきれきでした。

 私がいた東洋工業(現マツダ)のほか、古河電気工業、日立製作所本社、三菱重工業、ヤンマーディーゼル、豊田自動織機製作所、名古屋相互銀行、八幡製鉄(いずれも当時)が参加し、計8チームでした。

躍進の幕開ける
 広島の舟入高校から東京教育大学に進んだ今西和男に、山陽高校から中央大学に進んだ岡光竜三らと入社した1年目は、実業団の大会や天皇杯で、思うような成績を残せませんでした。

 ところが、JSL初年度から一変しました。松本育夫(元メキシコ五輪日本代表)、小城得達(同)、桑原楽之(同)、桑田隆幸らが加わりメンバーがそろうと、下村幸男監督、大橋謙三コーチの名指導で、東洋工業躍進の歴史が幕を開けたのです。

 仕事は午前中だけで、午後は練習という恵まれた環境と、チームを潤沢な資金でバックアップするほかの企業に比べて、東洋工業は決して恵まれていませんでした。

 日曜日の試合が終わると、そのまま広島に夜行列車で帰るわけですが、電車でも、駅に着くのは月曜日の早朝になってしまいます。その足で出勤していました。そして、就業後の夕方から練習が始まるのです。

 それでも、弱音を吐く者はいませんでした。それよりも「なにくそ、あのチームに負けてたまるか」と、いわゆる広島魂を奮い立たせていました。

 ですから、自然と練習は激しくなりました。
私がパスミスをすると、松本、桑田、桑原といった後輩からも「タイミングよく、この右足にボールを出せ」と、厳しい声が飛びました。逆に、松本の判断が遅れた時などは、「攻められたらすぐ追いかけろ」と、私が檄(げき)を飛ばすわけです。本当に公式戦さながらの緊張感がありました。

 そんな厳しい練習の中から生まれたのが、「東洋工業の3本目のパス」でした。

ベストゲーム
 相手の最終ラインを突破するに当たって、ボールを出した選手に、ボールが返ってくるまで、3本のパスを使って相手選手を翻弄(ほんろう)するわけです。このパスワークを正確にできるためには、正しい基礎を身につけていることが必要なのですが、東洋工業の選手には対応できるテクニックが備わっていたのです。

 このシーズンは12勝2引き分け(得点44、失点9)でした。唯一無敗という圧倒的な強さで、JSL元年の覇者になりました。最終節のヤンマー戦では、11―0と大勝し、得点と得失点差のJSL最多記録として残っています。個人でも最高のプレーができた上、周囲からも高い評価を受けた試合だったので、私のベストゲームの一つとして印象強く記憶しています。

 JSL1年目は、全56試合が行われ、観客総数は13万3400人(1試合平均2382人)でした。入場料は大人が100円、中高校生が50円、それ未満は無料という時代でした。
(2015年3月7日号掲載)

=写真=ヘディングでの競り合い(左から3人目が私)=サッカーマガジン1968年6月号

 
丹羽洋介さん