
御開帳を控え善光寺境内の整備が急ピッチだ。県北部を震源に最大震度6弱を記録した昨年11月の地震では、鐘楼の基礎石垣が崩れ、石塔類が幾つか倒れ、応急対策に追われた。そんな中、各種の営繕を担当する建設会社社員から、「本堂周辺はおでん屋になる」という冗談半分の例えを聞いた。
石塔は何段にも積み上げてあるので、耐震対策は穴を開けてステンレス棒を上下に通す。つまり、おでんの串刺しのようになるというわけだ。「一番多いのが傘の付いた常夜灯で、周辺を含め200基近い」という。
1847(弘化4)年の善光寺地震絵図には、倒れた常夜灯が描かれている。1941(昭和16)年の長沼地震でも、相当数が倒壊したと伝えられる。境内で最大だった本堂東の「理髪業の祖」藤原采女亮(うねめのすけ)碑はぽっきり折れた。石塔類の万が一を想像すると、背筋が寒くなる。
参拝者にとって石塔類は、善光寺信仰の歴史や実態を知る格好のギャラリーだ。鎌倉時代以前から本堂周辺は霊地であり「この世の極楽」とされ、先祖の供養塔、五輪塔、記念碑、句碑を境内に建立して信仰の証しとした。子細に碑文や奉納者の名前を読み取ると、歴史的に重要なものが少なくない。
現在の本堂建立の功績者・慶運僧正や、建設の指揮を執った松代藩士碑、あつい信心を寄せた徳川将軍家の大奥供養碑、参道石畳を寄進した大竹屋平兵衛墓塔、生け花教室子弟の花霊塔、迷子郵便の塔、「鳩ぽっぽ」作詞者碑、裁縫関係者の針供養碑...。さらに、松尾芭蕉から小林一茶、良寛、種田山頭火ら、文人の作品碑などは数えきれない。
本堂と経堂の間にある「むじな灯籠」は、院坊の一つである白蓮坊に関連する。人に化けて宿泊し、入浴中に正体がばれ、逃げたむじな(アナグマ)が寄進したという伝説である。
山門前広場に鎮座する「ぬれ仏」は、かつて覆い屋があったのが語源の地蔵菩薩(ぼさつ)だ。延命を祈願するが、案内人は「江戸の大火の火元・八百屋お七の恋人・吉三郎が、冥福を祈って寄進」と説明するので人気だ。
しかし、台座に彫られた碑文から、全国66カ所の霊場を巡った行脚僧の供養に千人以上の施主によって造られたことが分かる。
碑文研究では、教員退職後に善光寺事務局に奉職した小林済(あきら)さん編「善光寺之碑文集」(1977年、北島書店刊)が詳しい。
「先祖が常夜灯を寄進したとの言い伝えがあって、探している」という愛知県の一家に、半日ばかり付き合ったことがある。三河、三州をキーワードに探したが、見つからなかった。
ただ、この時に、信州と上州(群馬県)、武州(東京都など)の次に、愛知県・名古屋地方からの寄進が多いことが分かった。石塔群は江戸時代の善光寺信仰の広まりを実感できる貴重な「展示回廊」といえる。
(2015年2月28日号掲載)
=写真=林立する石塔類