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17 リーグ4連覇 ~広島の選手が集まる 王者の褒美で海外へ~

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 東洋工業サッカー部に入部した1年目は、結果を出せなかったのですが、私のプレーぶりや仕事ぶりを見て、会社も早稲田大学卒の選手を積極的に引き受けようという動きになりました。

 そして、翌1964年に松本育夫(元メキシコ五輪日本代表)、桑田隆幸選手らが加わり、スターティングメンバーの半数近くを早大OBが占めるようになり、日本リーグ初代王者に輝いたのです。

 さらに国泰寺、舟入、山陽、広島大付といった全国でも屈指のサッカー強豪である地元広島の高校OBが、大学を卒業するなどした後、故郷の東洋工業に多く集まるようになり、奇跡のリーグ4連覇を果たすことができました。連覇中は、わずか6敗という圧倒的な強さを見せつけました。

 今も破られず
 日本リーグでの、私のDFとしての命題の一つが、常に優勝候補に名前が挙がっていた三菱重工のFWで、東京、メキシコの五輪日本代表、杉山隆一選手を抑え込むことでした。最終ラインの一員として、必死に体を張り、何度も競り合いを演じました。

 もちろん、メンバーも勝利に向かって、一つになっていました。ポジションが固定していた松本、桑田、桑原楽之、岡光選手、守りではGK船本、今西、小沢、桑原弘之選手が安定しており、中盤には運動量の豊富な小城、石井選手が配される不動の布陣でした。

 リーグ2年目から二村選手が、3年目から大野選手が加わり、強固な地盤が築き上げられていきました。

 優勝回数では三菱重工に並ばれましたが、相手の2年連続を上回る4連覇は、リーグ史に輝き、Jリーグになった今でも破られていません。

 記録ばかりでなく、内容的にもサッカーの質そのものが高く、東洋工業黄金時代が築かれ、サッカーブーム到来の原動力になりました。

 非常にうれしかったのは、リーグ王者になるたびに、日本リーグからチームにご褒美を頂けたことです。

 それは、海外のチームとプレーすることです。

 1年目は、東南アジア遠征でした。マレーシア、シンガポール、ベトナム、インドネシアといった赤道近くの国々と、タフな試合をしました。2年目は香港遠征で、プロチームと2試合を行いました。3年目は、韓国で行われた韓国、中国、日本による3国対抗戦に出場しました。

 日本代表で表彰台に
 そして、4年目は、タイのバンコクで開かれたアジアチャンピオンズリーグ(ACL)の2回大会に日本チームとして初めて出場しました。厳しい試合が続きましたが、インドを破り3位に入りました。日本代表として、同大会で最初に表彰台に上ったので、感慨深いものになりました。

 当時の日本リーグを振り返ると、66年の得点王は東洋工業の小城得達選手。68、70、71年には、現在は日本サッカー協会顧問で、当時ヤンマーのFWとして活躍していた釜本邦茂氏が得点王になりました。

 また、67年には、リーグ最初の外国人登録で、ネルソン吉村選手が登場しました。そんな当時の日本リーグ時代のさまざまな思い出もありましたが、天皇杯、ムルデカ大会といった大きな大会でも経験を積ませてもらいました。
(2015年3月14日号掲載)

相手選手と激しい競り合い(左が私)=サッカーマガジン1966年12月号
 
丹羽洋介さん