
日本リーグの4連覇に続き、天皇杯でも3度、優勝を経験しました。一番印象に残っているのが、最初に制覇した1965年度の45回大会です。
当時の東洋工業は、左サイドに松本育夫選手、右サイドに岡光龍三選手と、運動量豊富な2人がいました。どちらかが敵陣のコーナーフラッグ付近まで駆け上がり、相手守備をかわして出したパスを、もう1人がシュートを決めるという「勝利の方程式」が確立されていました。
1回戦で中央大学を5―0で下し、準決勝では関西学院大学を7―0と圧倒。迎えた決勝戦の相手は、日本リーグのライバル八幡製鉄(当時)でした。晴れの舞台、国立競技場は3万5千人もの観客となりました。
母校に敗れた無念
お互いに質の高いサッカーを繰り広げたゲームは、私たち東洋工業が3―2で制しました。サッカーでは、最も面白いといわれているスコアもそうですが、試合内容でも観客を魅了し、「東洋工業と八幡製鉄の試合は一番興奮する」と、当時話題になり、耳にした時はうれしかったですね。
次に思い出すのが、準優勝に終わった翌年の決勝戦です。母校である早稲田大学の後輩に2―3という屈辱的なスコアで負けてしまったのです。
私も含めて、メンバーのほとんどが早大出身者ということで、チームは、無念というか悔しさでいっぱいでした。
釜本邦茂選手の攻撃力にやられました。日本代表のエースストライカーになった釜本選手は、高さはあったし、ボールを持った時のスピードは速かったですね。DFの裏へ走り込まれたら怖かった。前と後ろに1人ずつ配置しておかないと防げないくらいでした。
ただ、私たちにも意地がありました。入念に研究して、次戦ではしっかり対応していました。それだけの能力を、当時の東洋工業のメンバーは備えていました。
49回大会は、大学勢が躍進しましたが、私たちは相手を寄せ付けませんでした。立教大学との決勝も4―1と、「横綱相撲」で天皇杯3度目の賜杯を手にしました。
当時、私は主将を務めていましたが、結果的に選手として最後の大会になりましたので、有終の美を飾ることができて感無量でした。
社長が戒めの言葉
天皇杯が始まると、メンバーは、元日に行われる決勝戦に臨むことを前提にコンディションを整えていました。東京の本郷館が常宿で、大みそかにNHKの紅白歌合戦を見ながら年越しそばを食べて、翌朝お雑煮を口にして、国立競技場に向かいました。本当に、走馬灯のようによみがえります。
東洋工業らしさを実感したのが、社長のところに優勝報告へ行った時です。賜杯を手にした選手たちは、どれだけ褒められるのか期待していたのですが、社長の口から出た言葉が「君たちは、あくまでも仕事の余暇でサッカーをやっているわけだから、そのことを忘れないように」とくぎを刺されてしまったのです。
戒めともいえるこの言葉は、フルタイムで仕事をしているメンバーにとっては当たり前のことで、リーグ戦もそうですが、奮起につながった一つの要因だったと思います。
(2015年3月21日号掲載)
=写真=天皇杯で優勝し、肩車される私