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079 中村柊花 ~牧水を歌の師・心の友とし~

俵結ふわざにもなれて田作の身につく時を老い初めにけり

休み石といひて据へたる坂の石の中の一つに這ふごとく凭(よ)る
                                             中村柊花
    
              ◇

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 長野市の南東、松代町に向かうと、円すい形にそそり立つ尼巌山が、目の前に迫ってくる。花の季節、頂上を目指しつつ中腹に張り出した岩場に立ち寄って、思わず息をのんだことがあった。

 眼下一面、ピンク色に染まっている。さながら桃源郷の風情だ。千曲市森と並びアンズの里の誉れを高めた松代町東条。「旅と酒」を詠んで人気の歌人、若山牧水もほれ込んだ田園春景である。

 その牧水の門下、盟友として親交の深かった中村柊花は、この地の集落の一つ、山裾の岩沢に生まれ、育ち、そして没している。

 冒頭「俵」の1首は、農家の働き手としてあれこれ作業が身に付いたころ、早くも老いが忍び寄ってきたという。36歳にして親の跡を継ぎ、サラリーマン生活から一農夫に転身した事情が背景にある。人生の哀歓をしみじみとさせてやまない。

 俵は、わらで編んで米などを入れる太い筒状の袋。むしろや縄とともに冬の農閑期、わら仕事は農家にとって屋内での欠かせない務めだった。

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 2首目「休み石」の歌も、土を耕し作物を収穫する農民ならではの姿が活写されている。尼巌山を背にして南西に開けた東条は傾斜地が多い。標高500メートルほど、霜の害が少なく、かつては桑が養蚕を支え、現在はアンズやリンゴなど果樹が盛んだ。

 けれども米作りだけは、平地に開けた水田まで下ってやるほかない。例えば秋、ずっしり重い稲束を背負い、あえぎながら坂を上る途中、休み石で一息入れる。〈這うごとく凭る〉が、肉体労働のきつさを物語って余りある。

 柊花は1888(明治21)年9月7日、旧埴科郡東条村で農家の長男に生まれた。本名は端(はじめ)。蚕糸業隆盛の時代、その先端を開く小県蚕業学校に入学し、卒業後は養蚕の指導に当たる蚕業取締所に勤めた。

 傍ら打ち込んだのが歌詠みの道だ。「山彦」「土よりの声」など歌集5冊を数える。その足跡を丹念にたどった評伝が1996年、孫娘で長野市在住の歌人三沢静子さんの手でまとめられている。

 題して「土の歌人中村柊花―若山牧水・喜志子とのえにし」。歌や評論の主な発表舞台である歌誌「創作」を読み解くとともに、牧水や喜志子からの柊花宛て書簡を随所に織り込み、近代短歌史の一側面に独自の照射をしてみせた。

 
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そこに浮かび上がるのは、「旅の歌人」牧水と「土の歌人」柊花という相異なる個性の響き合いだ。歌を介した魂のふれ合いである。

 二人が一緒に歩いたという岩沢の坂道をたどり、休み石に腰掛けてみる。冷たく、しかも不思議に温かかった。

 〔「創作」〕1910(明治43)年、牧水を主宰として東雲堂書店が創刊した詩歌総合雑誌。曲折を経ながら、牧水結社の短歌誌の性格を強め、牧水の没後は妻喜志子、長男旅人らが引き継ぐ。

=写真1=岩沢の坂道にある休み石
=写真2=真田公園の柊花歌碑
 
愛と感動の信濃路詩紀行