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078 シベリア抑留 ~戦友の無念を俳句に託して~

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凍傷者 カァヤン・カァヤンと 呼びて逝く
                      板垣峰水

    ◇

 背後から靴音が激しく迫ってくる。振り向くと息遣いも荒々しく、10人ほどの1団が駆け抜けていった。

 上田市街地のほぼ中央、上田城跡公園の内堀に沿った遊歩道を利用し、高校の陸上部がダッシュの特訓を繰り返している。校内のグラウンドは、まだぬかるんで使えないらしい。

 後ろ姿を傍らで見送りつつ、気付けば、そこは招魂社の入り口だった。社殿に歩み寄り、思わず手前で立ち止まる。「カァヤン・カァヤン」。碑に刻まれた片仮名8文字が、目に飛び込んできたからだ。

 「母さん」「お母さん」と、はるか遠い祖国に向かって繰り返さずにはおれない哀切さ、痛々しさ―。声の主は、酷寒の地で凍え死ぬ寸前の若き元日本兵である。あらためて碑面の一字一字をたどった。〈凍傷者カァヤン・カァヤンと呼びて逝く〉

 〈郷土の俳人上田市出身の板垣峰水氏は終戦まぎわ捕虜となりシベリアで抑留作業に当たりました。零下四十度を越える厳冬。戦友が凍傷になり、「カァヤン」と母を呼び祖国日本を恋いながら数多く昇天されました〉

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 大きな自然石の句碑に寄り添い、建立の趣旨を記した小さな石柱が控えている。この句の作者、板垣峰水さん自身が、シベリア抑留の体験者だった。

 そうであればなおのこと、話を伺わなくてはならない。後日お願いの電話をすると、若々しい声でてきぱき対応してくださった。

 教えられたとおり、千曲川に架かる上田橋を渡り、城跡公園とは対岸の中之条地区に着く。玄関には「上田俳句会」の看板があり、今も現役の俳人は、端然と座して異郷での過酷な日々を語りだした。

 1925(大正14)年3月31日生まれ、本名は板垣安春。第2次世界大戦のさなか43年1月、17歳で陸軍に志願する。やがて現在の中国東北部、旧満州へ。終戦の45年8月、侵攻してきた旧ソ連軍の捕虜となり、貨車でシベリアに運ばれた。

 「ひどいもんだよ。鉄道敷設などの重労働をさせられ、ろくな食べ物もない。最初になめた厳冬の辛酸、なかでも1月を中心に零下40、50度に耐えられず、次々に息絶えていった。1年早く戦争が終わっていれば、こんなことにならなかったのに」

 凍傷などに苦しんだ揚げ句「カァヤン」と叫び始めると、もう助からない。望郷の思いむなしく果てた仲間の無念は、俳句の17文字に込めるしかなかった。

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 3月には90歳。「もう生きているのは私だけだ」と語る時、こらえきれない涙がにじむ。別れ際、玄関先で敬礼して見送ってくれた。

 近くの川岸にたたずめば、遠く烏帽子岳が青空に突き刺さるように白く輝いている=写真下。戦後70年、この平和の尊さが身にしみてきた。

 〔シベリア抑留〕昭和20年8月、対日参戦したソ連が日本兵らをシベリアや中央アジアに連行し、強制労働に従事させた。その数約58万人、うち約5万5千人が死亡したとされる。
(2015年2月21日号掲載)

=写真上=厳寒の悲惨を刻む句碑
 
愛と感動の信濃路詩紀行