
善光寺の本尊、一光三尊阿弥陀如来はどこから来たのか。縁起では、百済から日本に渡り、大和政権が支配していた畿内の難波から―とされている。一方、歴史学、考古学からの考察では別の見方がある。
仏教はある時、突然に伝来したものではなく、何十年、何百年がかりで各方面からじわじわと浸透した。全国にまつられている渡来仏も、経典と一緒に長い年月をかけて渡ってきたと考えられる。
絶対秘仏の身代わりとして、御開帳で本堂内陣に安置されている前立本尊について、仏教美術の専門家の間では「原始的な初期仏像」という評価が高い。
長崎県の対馬で、素朴、ほのぼのといった表情が印象深い前立本尊にそっくりな渡来仏を見た。小さな漁村・黒瀬の住民が大切にまつり、1976(昭和51)年、重要文化財に指定された「銅造如来坐像」である。高さ46センチほどだ。
朝鮮半島から約50キロの対馬には、同様の仏像が多数保存されている。盗難に遭い、入手した韓国の寺院が「本来、韓国のもの」と返却を拒むなどの問題も起きた。ともあれ、日本の渡来仏の大半は、朝鮮、対馬海峡を渡ってきたと推測される。

「善光寺仏は新潟の日本海岸から信濃川・千曲川を遡上したのかもしれない」と主張したのは、杉山二郎さん(1928~2011年)だ。東京国立博物館の東洋考古室長や、長岡技術科学大学教授などを務め、毎日出版文化賞を受賞した「大仏建立」や、「善光寺建立の謎」(信濃毎日新聞社刊)などを著した美術史家である。
杉山さんは、仏教や渡来仏が伝播したのは縄文時代にさかのぼるとし、「畿内への伝播より1世紀早く、馬の飼育技術を持った高句麗仏教系の渡来人が主人公だった」と指摘。証拠として、松代町の大室古墳群に見られる積石塚古墳と出土品などを挙げる。
日本と朝鮮半島の間の海峡は、強い海流が北上する。船が進路を誤ったり、嵐に遭ったりすれば、山陰や北陸、さらに東北地方へ漂着する。そして、内陸へ進むには川沿いとなる。
信濃川沿いの新潟県長岡市にある新潟県立歴史博物館学芸員の前嶋敏さんは「長岡は日本最大の縄文人集散地。見事な土器が多数出土し、市立の専門館を動員しても展示しきれないほど」という。余裕のできた集団は、信州の各地を探索して移住したのだろうという。
杉山さんは「サケを追い、川沿いに上田、軽井沢へ、さらに松本、諏訪へ移り住み、信州文化の基礎になった」と解説。古代、文化はすべて中央(京阪・畿内)から天下るという発想で日本文化史を語るのは大きな誤りと指摘している。
縄文時代にまでさかのぼる研究者の論考に目を向けると、善光寺の奥深い歴史に一層興味がわいてくる。
(2015年4月25日号掲載)
=写真1=対馬の「銅造如来坐像」(対馬市教育委員会提供)
=写真2=新潟県立歴史博物館で展示された土器