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20 現役引退 ~サッカーで得た経験 仲間がいたからこそ~

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 サッカー選手として多くの試合に出場した中で、広島県人として一番誇りに思えるのが、「全広島」のメンバーに選ばれたことです。

 全大阪を招いての定期戦で毎年1回、2日間行うサッカーの祭典です。中学、高校は広島県内の学校同士で対戦。関西からは関西学院大、八幡製鉄(当時)といった強豪チームが参加していました。

 早稲田大の時に出場した第9回大会では、学生選抜と全広島の私たちは、八幡製鉄や全大阪と対戦しました。それまで、広島が3勝、大阪が4勝、1引き分けと、まさに互角の試合を演じていました。

 社会に通用する人に
 第10回大会にも出場しました。日頃、ライバルとして戦っている選手がチームメートだったので、プレースタイルも分かりやすく、いいチームワークで臨み、楽しくプレーができました。

 当時はメンバーに選ばれたことがうれしくて、わくわくした気持ちで東京駅から列車で広島駅に向かったことを覚えています。

 そして、東洋工業で6年目の時です。リーグ戦の快進撃もあり、質の高い選手が毎年多く入ってきていたのですが、試合に出場するメンバーが固定されている状況でした。そこで、若手の出場機会を増やすため、下村幸男監督はじめコーチの提案で、「28歳サッカー定年制」が敷かれるようになったのです。

 そのころの私は、サッカーと並行して、自動車のディーラー経営にも興味があり、「いつまでもサッカーはできない。やめても社会に通用する人間にならねば」と覚悟をして、1969年にサッカー選手としての現役引退を決意しました。

 コーチに就任した今西和男を除き、同期のみんなが仕事に専念することになりました。
初めて、サッカーボールを蹴ったのが広島大付属小4年生の時。遊びの延長で、休み時間に友達と白いゴム製のボールを蹴り合う程度でした。大けがに見舞われながらも、広島大付属高3年の時に、全国選手権で準優勝し、早稲田では日本代表に選ばれ、長期の海外遠征ではデットマール・クラマーさんと出会いました。

 韓国・高麗大との定期戦で、アワビを食べ過ぎて腹をこわしたこと、韓国内で「学生革命」が起こり、突然の帰国を強いられたこと、東洋工業で日本リーグを4連覇し、天皇杯で3度優勝したことなど、サッカーを通じて経験したさまざまなことを、走馬灯のように思い出します。

 シューズに思い託す
 そして、忘れられないのが、高校、大学、東洋工業時代の監督、コーチ。そして、ともに戦ってきた仲間です。関東で試合があった時は、夜行列車で広島に帰るのですが、長時間の車中では「お前のあのプレーは、こうしたほうがいい」など、サッカー談義に花が咲きました。

 広島駅に着いたら、そのまま出勤するという強行軍が、何年も続きましたが、ともに戦ってきた仲間がいたからこそ、ここまでサッカーを楽しめたのだと思います。感謝です。

 早稲田の後輩でもある二村昭雄から、私が履いていたサッカーシューズが欲しいといわれたので、「東洋工業サッカー部を頼むぞ」という思いを込めて喜んでプレゼントさせてもらいました。
(2015年4月4日号掲載)

=写真=東洋工業の仲間たち(左から私、桑原楽之、二村昭雄選手)
 
丹羽洋介さん